« 「私語」の指導について | トップページ | 1)遊べや遊べ »

2008/12/11

『授業 人間について』(林竹二 国土社)

『授業 人間について』(林竹二 国土社)

人の一生を決める本があるとすれば、私にとってこの本はその種類の本の中の一冊であることには間違いない。大学二年生のときに、この本を読んで衝撃を受けた。

そして、有難いことにいま、大学二年生の学生たちと一緒に、この本を授業で読むことができる。基礎演習ゼミの授業で、各クラス共通の教材として扱うことになり、今日はこの本を読んだ。

『タイトルを見ると、「授業」ってあるけど、ところで授業って何?』

改めて問われると、学生たちは答えに詰まる。何気なく使っている言葉をきちんと説明してご覧と言うと困る。授業と講義はどう違うの? 授業に必要な要素は? 授業が成立するってどういうこと?

学生たちは
(そんなこと聞くなよ)
という顔で見ている。

だが、問うことをしなければ、学ぶことはできない。

タイトル読みをした後、読み始めた。
正確に言うと、前書きの部分を私が読みながら、解説を行い、疑問を投げかけ読み続けた。

『授業 人間について』8~9pから引用開始 ーーーーーーーーーー

この授業のテープを聴いて騒がしいと感ずる人も、騒がしくないと感ずる人もあるかもしれない。実際に授業で苦しんで、開眼を経験した人は、騒がしくないと聞いてくれるようです。それは、子どもたちが授業の中で、その主題に集中して、授業にはいりこんでしまった、みんなが一緒になって、その問題と取り組んでいる。幼い子どもですから、頭の中に浮かぶ思いが全部そのまま言葉になってでる。その言葉になってでてきたもんが、つきあわされたり、つなぎあわされたりして、綜合されて、だんだんひとつの流れとなり、焦点を結んでゆく。そういうことが、持続的に授業の中で行われているか、どうか。それが授業の質を決定するわけです。

子どもが、ほんとうに授業のなかにのめりこんでしまうというふうになりますと、子どもたちの自由な思うままの発言が、雑音にならない。そのひとつひとつが、授業の展開のひとこまひとこまになるのです。それをまともに受けとめて、全体の中にきちんと位置づける仕事が教師の仕事です。

引用終了 ーーーーーーーーーー

という文章がある。
私は大学二年生のときに、

(なに、そんなのできるの。そー、できるってなら、俺もやったろうじゃん。ふざけんなよ)
と思って塾の授業で挑戦していた。

ふざけているのは、お前の方である。そう、私である。
私であるが、そこはそれ若者の特権。本気で林先生がされていた授業を自分もやってやろうと思い、挑戦した。そして打ち砕かれていた。

打ち砕かれつつも、めげないのが私。
(なんでぇ、同じ教育をやろうとしている人間じゃないか。そんなに違いがあってたまるか)
やはりアホである。違いがあってたまるかではなく、ありすぎるのである。相手は東北大学の元教授で、宮城教育大学の学長である。でも、でも、教育では同じであり、先輩ではあるがライバルでもあると思っていた。

完全にアホである。
若いって凄いことである。

だが、やっぱり心のどこかに、同じようなことを思っている私がまだいる。アホなのか、若いのか、そのどちらもなのか分からないが、そんな私がいるのを自覚している。

奥さんには、
「あなたねえ、相手は日本一なのよ」
と慰められるが、
(てやんでえ)
と江戸っ子になって反論する私がいる。

そして、改めて読んでみると、これは授業中の「私語」と「公語」*1の問題を考える良いテキストとなっていることが分かる。さらに、西川純先生の提唱される「学び合い」を考える際にも重要な問題を含んでいると思われる。

一度もお会いをしたことのなかった林竹二先生と、会話を楽しんでいる自分がいる。

私は林先生の授業を追っていた時期があった。
斎藤喜博先生でも、大村はま先生でもなかった。林竹二先生であった。

その林竹二先生の御著書を学生たちと学ぶことができる。これは幸せである。僥倖である。だれが書いてくれたシナリオなのかは分からないが、素直に嬉しい。

そして、再び林竹二先生に打ちのめされながら、読み進め、授業を考えるのだなと思う。

*1「公語」とは、池田の造語である。私の学級担任論の授業では授業における「私語」問題を考える際に、補助線のように私語の対概念として提示している。

« 「私語」の指導について | トップページ | 1)遊べや遊べ »

コメント

交語・・・。ぼくも失礼ながら同じことを言っていました。
西川先生のブログで言っています・・・。
これから、「池田先生が言っているように・・・」と引用させていただきますね。

ぼくは学生の頃、佐藤学さんの本をずっと読んでいました。
年々佐藤先生とは離れていくのですが、
本を読むことは今後の自分を創ることにつながっています。

灰谷健次郎さんの本から、林竹二さんの本に導かれて、著作はほぼ全部読破したと思います。林竹二さんの『湊川で起こったこと』に出会わなければ、その後の僕の大学生活は全く違ったものになっていたでしょう。
それにしても、あの「人間について」の授業を大学の授業で使うという発想がすごいです。
すぐれた実践の根っこは同じなのかなあ、と漠然と考えています。学生の皆さんがどんな風に池田さんの授業から「汲んで」いくのか、楽しみです。

>>ながたくさん、

公語は、私が勝手に使っていますが、他にも使っている人入るんだろうなあと思っています。西川先生も使っていらっしゃいますか。そうでしょうねえ。

本を読み返すことの快楽。
自分が未熟だったころを恥ずかしく思い出しつつも、多少は成長できたかなあと思う訳であります。

>>イクトスさん

やっぱり読みましたよねえ、林竹二先生は。本学の児童教育学科の先生にこの本をテキストにどうでしょうかと提案したところ、ほとんど即決でした。読んでいない先生、読んで感動していない先生はいなかったので。そして、ビデオを購入して年明けに見ることになりました。

『湊川で起こったこと』これも名著ですよね。あの少年の背筋が伸びて行く写真は衝撃でした。『授業 人間について』とどちらを読ませようかと悩んだところもありましたが、まずは先に『授業 人間について』を選びました。

教育や授業を考えさせる古典となりつつありますね。

ごめんなさい。わかりにくいことを述べました。
西から先生のブログに、ぼくが書きこんだのです。
公語として。なるほどと捉えていただきました。

やっぱ池田さんはできが違う!と思います。私が池田さんの大学2年のレベルになれたのは、現実に担任のクラスを持ってからです。すごいな~

>>ながたくさん

そうか、交語でいいわけですね。そういう言葉を考えた訳ですか。

>>西川先生

なんと。
そうじゃなくて、単に無鉄砲に林竹二先生に挑戦していただけですf(^^;。ですが、こんなすばらしい本に学生時代に出会え、そして15年後に「学び合い」に出会えと、嬉しい限りです。

このblogを読んで、私もこの「授業 人間について」を読んだにも関わらず、

> 西川純先生の提唱される「学び合い」を考える際に
> も重要な問題を含んでいると思われる。

と、とらえることが出来ませんでした。

おっしゃるとおりだと思います。
実は私も同じ論理で、例の絵本「あなたへ」を使った授業での拙論にしているのです。

池田さんの受け止め方や、暴挙(?)とも思える幾度とない実践に思わず笑顔になりながら感じ入ると共に、(林竹二だから出来るという勝手な思い込み論理が多い中・・・)
(昨年、4年目の先生の絵本の実践で子どもの感想が似たものが多くあったのです)

> 一度もお会いをしたことのなかった林竹二先生と、
> 会話を楽しんでいる自分がいる。

という表現や、

> その林竹二先生の御著書を学生たちと学ぶことができる。
> これは幸せである。僥倖である。だれが書いてくれた
> シナリオなのかは分からないが、素直に嬉しい。

という文章を読み、素晴らしいとおもいました。

それだけです。

また新たな発見があり、名文に接して清々しい気持です。
ありがとうございました。

>>gahahaさん

暴挙の池田ですf(^^;。
本人はまじめなんですけどねえ。
若いというのは、恥ずかしいものです。

でも、こうして林竹二先生の本を通してみなさんとお話しできるのは、嬉しいことです。

弊社では、林竹二先生の「人間について」の「アマラとカマラ」及び「ビーバー」の授業記録映画を作っています。
もしよければ、こちらから、有料配信しているので、ご覧になってみたください。
http://necfru.jp/ggendai

ありがとうございます。

久しぶりに投稿します。

先日先生の「教師になるということ」を読みました。
実際に学校で起こることを例をあげて述べられていていちいち納得しながら読みました。

小学校時代の教え子からの今年の年賀状に「高校の体育の教員になる」というのがあったので、早速ご著書を送ってやろうと思っています。

先生がおっしゃるように本を読まない人は教師になったらあかん!と私も思っています。
しかし、今までいた学校では本当に先生は本を読みません。
読む人はほぼ小説のみです。

私は学校図書館教育を長らくやってきていて、職場で「生きる力をつけるために図書館を使った授業をしよう」と呼びかけてきましたが、なかなか理解されませんでした。

なぜ受け入れられないのか考えて、気がついたのが、周りの多くの(ほとんどの?)先生は(仕事に関連する以外の)本を読まないということと、図書館など使ったことがない。教科書を使った授業以外経験したことがないという現実でした。

今は、大学で学校図書館学を教えていますが、学生にアンケートを取ったところ、ほとんどの学生が、小学校ではともかく、中学高校で図書館を使ったことがない、図書館を使った授業などとんでもない、図書館の場所も知らなかったものさえいるという現実です。

「受験」の前には、学校図書館法も指導要領の「生きる力」もひざまずいているのが現実の様です。
まあそうだろうなと言うところですが、読書を習慣化させる、読書の楽しさを身をもって経験させる、読書の有用性に気付かせる(これだけは学生はレポートなどの必要性から誰しも感じているようですが)
のがとても大切なことだと考えています。

林竹二先生の著書の事を読んで、ビーバーや、アマラとカマラの実践を懐かしく思い出しました。
ただ、その後養護教育(今でいう特別支援)にかかわってアマラとカマラは発達障害ではないかという見方を知り、今となっては確かめようがないかとも思い、それ以来この授業はやめました。

ところで、一つ疑問があるのですが、先生のいらっしゃる大学では、教員志望の学生に1年に100冊の本を読め、4年間で120センチ(面白い発想でビックリ)または100キログラム(これも面白い)ということですが、1年で100冊なら(単行本1冊約1.2㎝×100=120㎝)単行本ならそれだけで120センチ程度になるのではないかと思いますが(ちなみに拙宅の書架でランダムに岩波・中公新書のたぐいと、文庫を計ってみたら10冊でおおむね11センチから12センチ前後でした。重さは同じ新書で10冊2キロ程度でした。
これからすると、1年に100冊ではなく4年で100冊なのではないでしょうか?120センチ=30センチ×4年ということからもそう思うのですが、いかがでしょう。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 「私語」の指導について | トップページ | 1)遊べや遊べ »