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2008/12/04

忘れ物指導のあり方

12/2

学級担任論は、忘れ物指導のあり方を行う。

馬鹿自慢をする訳ではないが、私も忘れ物では難儀した方だ。自分の経験、指導した経験と家本芳郎先生の『忘れ物の教育学』を元に授業をつくる。

『この中で、忘れ物をしたことがない人はいるか?』
『この中で、忘れ物をしようと思ってしていた人はいるか?』
『この中で、忘れ物をしたとき「忘れ物をするな!」以外の指導を受けたことのある人はいるか?』

と学生たちに聞く。結果は予想通りで、「忘れ物をしないものはいない。しようと思ってやっていない。忘れ物をなくすための指導はうけていない」ということであった。

私は思うのである。
たとえば、これがプール指導であったらどうであろうか。泳げない子ども。泳ぎたいけど泳げない子どもに対して、『泳げ!』という指導はあり得るのか?ということである。ま、そんなのはあり得ないだろう。死んでしまう。

しかし、忘れ物指導であっても実は同じであろう。直接命に関わりはないだろうが、大人になるために忘れ物をしないというのは、大事な学習課題であるはずだ。ならば、子どもが忘れ物をしなくなるようなきちんとした「指導」をすべきである。忘れ物のを防ぐための授業をするべきである。

そんなことから忘れ物指導の授業を行った。
たとえば、子どもの発言に付いて考えてみた。

『ん、今日は宿題どうしたんだ?』
「忘れました」

という何気ない会話の「忘れました」には私は5つの意味が隠れていると思われる。なんだと思われるであろうか。





























30行ほど考えて頂いた。私は次の5つだと考えている。

1)本当に忘れた。
2)宿題が分からなかったので、忘れたと言った。
3)宿題ができなかったので、忘れたと言った。
4)宿題のプリントをなくしたので、忘れたと言った。
5)宿題をするための道具を買えなかったのでできなくて、忘れたと言った。

である。子どものとの会話をし、その表情や言い方から1)なのかそれ以外なのかをきちんと理解し、もし1)でなければ、2)から5)のどれなのかを考えて指導をしなければならない。ここがずれると、指導は空回りをする。

授業を作りながら、実に教師と言うのは、言葉に繊細でなければならないのだなあと思う。

来週は、私が行った指導例を元に、あれこれ考えてみる予定である。

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