子どもの事実の中に私たちは
午前中は講座であった。
カーナビで確認し、講座開始に1時間余裕を持って家を出たのであったが
事故渋滞、道間違い、場所間違いとあって定時に遅れてしまった。
こんなの初めてだ。
申し訳ありませんでした。
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今日の講座は『こんな時どう言い返す』の講座。生活指導主任が受講者ということで、あまり必要ないのではないかと思っていたが、帰り際にざっと感想文を拝見すると、特に若い先生方にはとても好評であった。
「うちの学校に来て校内研修をしてください」
「続きをまた受けたいです」
「他の講座もお願いします」
など全体の9割以上はこのような意見であった。
良かった良かった。
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講座をしながらあれこれ考えていた。子どもを前にして「子どもは、こうでなければいけない」というスタイルから入る方と、子どもの事実を捉えて「子どもの事実からどう指導しようか」と考える方の二種類があるのだなあと。
言ってしまうと、前者は原理主義のように感じる。「正しい」原理原則があり、それ以外はダメというものである。確かに教育にはそのような一面がある。それを教えて行く必要はある。
しかし、「この正しさ」に従わない者は間違っている、というようにバサッと切ってしまえば問題が解決するかと言えば、しないのが教育であろう。
原理原則、さらには理論。これはとても大事。だが、子どもたちは原理原則の中だけに生きている訳ではない。むしろ、子どもの事実の中に私たちは、指導の糸口を見つけて行くことの方が多いのではないかと思う。
だから、うちの児童教育学科の演習では実践記録を子どもの事実に基づいて読んで行くレッスンしている。
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また、大学院生のときにある先生が話していたことを思い出した。それは学びのストラテジーのある学生とない学生の差は、結構決定的であるということである。
簡単に言うと、素直に学ぶということ、目的を持って学ぶということなのだが、これができる人とできない人がいる。私の仲間には、両方ともできる人がいる。すごいなあと感嘆する。私は、前者は場合によってはオッケーで場合によってはダメ。後者はまあオッケーである。
ところが、どちらもダメと言う人もいる。自分だけが正しいとなってしまい、自分以外の何ものからか学ぼうということにならない人がいる。
教育実践書を読む時も、「ここがダメだな」というスタンスで読んで行く人と、「ここに学ぶべき点があるな」と言うスタンスで読んで行く人に分かれるのと同じだ。
後者のスタンスがある人は、きちんと批判をする。しかし、前者の人は、非難になることが多い。そして、非難だけして実践が弱い場合が多い。私が担当している学生は、そんな教師に育てたくはないと思う。
そんなことも考えながら、講座をしていた。
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帰りに道ヨドバシカメラに立ち寄り、とうとう一眼レフを購入。
あれこれ悩んで考えて、一台を購入。
帰宅後早速娘を撮りまくる。
今までのカメラでは撮れなかった、表情や被写界深度を使った構図などが撮れる。
いやあ、可愛い。
年末年始のお楽しみが増えた。
写真は夜に上がった琵琶湖の花火。
手前のヨットにピントを合わせてみた。
これも今までは撮れなかったショットだ。
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