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2008/12/19

「指示」である。ここのトレーニングが、大事である

1限 保育内容(言語)の授業。

先週は学生たちに言葉遊びの意義を説明し、実感させた。今週は学生たちが実際に言葉遊びを、大学生相手にしてさせるという授業である。

6グループあるので、ひとグループ辺り5分の持ち時間。私がその後の5分でコメントをし、その5分間に児童役の学生たちは演じたグループへコメントをカードに書くという作業をする。これで90分であった。

私の先週の説明が足りなかったのか、最初のグループが大学生に説明するような形で行っていたので、
『対象の年齢の子どもに説明する、その説明の仕方でやってください』
と改めて指示を出す。

そこで感じたのは、「指示」の甘さである。これは小学校の教員を目指す児童教育コースの学生たちの授業でも強く感じることである。「指示」ができないのである。

作業をさせるときに、「しろ」「やれ」という一言でできる場合、

1)何をするのか
2)どうやるのか
3)ゴールは何か
4)何のためにやるのか
5)注意することは何か

などが理解されている。あたり前だが、これらが理解されていないときに「しろ」「やれ」と言っても無理である。だが、学生たちの指示を見ていると、これらを理解させることなく「しろ」「やれ」となっている。

子どもは優しいので、うまくできないとき先生の指示が悪いのではなく、自分が馬鹿だからわからないというように思う。かなり成長してもそう思う。こんな私でも
(あれ、この先生の言っていることわからないな)
(うーん、この文章の言いたいことがわからないな)
と感じるとき、先生が悪い、文章が悪いと思えるようになったのは、中学生になってからだったのを覚えている。

1)から5)を子どもに合わせてわかりやすく説明をして、質問を受け付けて、
『みんなわかった? じゃあ始めるよ! どうぞ!』
とやるから楽しめるのだと思うのだが、ここが甘い。

「当てっこゲーム」というのがあった。

「あるもののヒントを5人が考えて言うので、それは何かを当ててください」

というものがあった。4、5歳児にやるという。私は4、5歳児がどのぐらいなのか実感はないがちょっと厳しいのではないかと思った。例題として先生の学生がやったのは、

1)変身します。
2)時間が大事です。
3)働き者です。

というヒントを出して行った。そのときに、答える学生が
「シンデレラ!」
と答えた。
「正解です」
となった。

私はそこで
『ウルトラマンだよ!』
とあえて言ってみた。
学生たちは、困惑しおろおろしていた。

「次のヒントを言うとわかるかな?」
と言い、

4)カボチャ。(だったような気がする)
5)王子様と結婚する。

と続けた。私はスルーされた。

演技の後に私は解説をした。

『私がウルトラマンだって言ったとき、私のことをスルーしたでしょ。見捨てた訳だね。これは残念だなあ。予定通りに行かなかったのだと思うけど、だからといってこの子どもを見捨ててしまうのは、違うでしょ。一人の先生が、その子どものそばに行って、「なんでなんで? 教えて」とか話せば良いのに。

で、話を来て、「君は賢いな〜」と一言言ってあげれば良いのに。子どもは子どもの理由があるんだから、それを聞いてあげようよ。これも大事な言語活動だよね』

ゲームに戻ろう。学生の先生は、私をスルーした後、次のように進めた。

「では、みなさんにやってもらいましょう。だれかヒントを出してくれる人はいる?」
と聞いて学生を当てていた。問題は「バナナ」であった。
見ているとヒントを考えてあれこれやっている。

そこで演技後にまた聞いて見た。
『ヒントを考えて、という指示だけで4、5歳児さんは考えられるの?』
「・・・」
『考えられるかもしれないけど、ヒントが被らない? 被ってもいいの?』
「被らないほうがいいです」
『大学生は大人だから、前の人のヒントを聞いて被ってしまったら咄嗟に被らないヒントを出せると思うが、子どもでできるのかなあ』
「・・・」
『できないのであるとすれば、先生の方が被らないヒントの出し方を指示しないとね。たとえば、5人いたら一人ずつヒントのエリアを決めてしまうのはどうであろうか。

1)大きさ
2)色
3)匂い
4)味
5)叩いた時の音

など。つまり五感だ。これなら被らないでしょ』

全ての演技が終わってから、確認した。
『どうですか。結構難しいでしょ、子どもを遊ばせるというのは』
学生たちは、強く頷いていた。

「指示」である。ここのトレーニングが、大事である。

3限

ディベートの団体戦。論題は、【日本は全ての小中学校の給食を廃止すべきである】である。立論の作り方として、列挙、リンクマップ等を説明した後であり、百科事典からリサーチを始めることも説明した後での立論づくりである。

試合を聞いていると、学校給食法などの法律が定義や証拠資料で出てくる。丁寧にリサーチをしているのがわかる。年明けに数試合予選を行い、決勝戦が今年度の最終講義の日となる。

4限

もう一つ別のクラスの、保育内容(言語)である。私の授業の構成は同じ。展開してみると学生たちは、実に1限と同じようなところで、失敗をする。同じように指導。

5限

国語科教育法2。メディアリテラシーの最後。フォトストーリー3というソフトを作って、実際に映画を作ってみる。30分で説明、30分で製作。あまりにも簡単に映画ができるので驚く。30分で鑑賞会を行う。

鑑賞会を行いながら、このソフトで作る作品の活用方法、注意点、授業への活かし方等を話す。私がいま現場にいたらこのソフトを使ってやることは何かなども話す。

ということで、今年の私の授業は今日で終了。
ふう、よく働いた。

あとは、会議と講座と事務処理だな。
あ、原稿も残っていた。
あ、年賀状も何もやっていない。

いつも通りの年末と言えば年末だ。


『美山錦 純米吟醸 生詰 美田鶴』

残念ながら学科の忘年会に行けなかったので、家で楽しむ。
とっておきの一本を出す。

『美山錦 純米吟醸 生詰 美田鶴』

だ。

本マグロの稚魚と生ガキを肴にして、楽しむ。
実にうまい。

ほんの一合で十分うまい。
京都でちょっとした料理で
これを飲ませてくれる飲み屋はないかなあ。

2008/12/18

午後はずっと研究室で原稿書き

12/18

1限は、もう一つやっているディベート関連の授業である。
今日試合をする学生は、通学に二時間以上かかっている。
兵庫から来るのだが、
(やばい。今日も濃霧になりそうだ。電車が遅れる!)
ということで、新幹線で駆けつけたとのことだった。

試合は、負け。
負けたのは悔しいが、それでも多くのことを学んで満足だと感想文に書いてあった。
ディベートは勝つためにやるのか。そうだ勝つためにやるのだ。
しかし、勝つのが最終の目標ではない。
勝ち負けは、最終目標のためのきっかけでしかない。

最終目標は、人間的な成長である。
ディベートを通して人間的な成長を身につけることにある。
試合の中身は、相手のあることだし、ライブだし、いろいろな結果になる。
だが、そこに至るまでの準備、取り組みが大事なのだ。

これをきちんと続けていれば、
新幹線代なんて、やがておつりが付いて返ってくるはずだ。

2限は、基礎演習ゼミ。今年最後なので、大学から学科からといろいとと連絡事項がある。

中でも大事なのは、3回生ゼミに向けてのアンケートである。学生諸君は、正月休みにじっくりと考えて3回生ゼミを決める。学生の希望とGPAで決まって行く。選ぶ際の注意事項を話し、質問を受けて来年度のことをあれこれ話す。

授業は『授業 人間について』の輪読から感想を出し合い、疑問点等を確認する。多かったのは、

・ 林竹二先生の話が長い。
・ 6年生には難しいのでは。
・ 使っている単語が私にもよくわからないのがある。
・ 寝てしまうんじゃないか。
・ 子どもの意見をあまり聞いていない。

と、どちらかというと否定的な感想が多かった。

私は
『手元にある今日配ったプリントの写真を見てご覧』
と。

そこには、林竹二先生の授業を、目をキラキラ輝かせて聞いている子どもたちの写真がある。「六年生には難しいのでは」「寝てしまうんじゃないか」という感想を述べた学生は、うーんと唸る。

『この本には、同じ「人間とは何か」の記録が後二つ載っています。一つは、小学校3年生で、もう一つは小学校1年生です』
「え〜!」
ということで、「6年生には難しいのでは」という感想も意味をなさなくなる。となると、「林竹二先生の話が長い」「使っている単語が私にもよくわからないのがある」「子どもの意見をあまり聞いていない」という感想だけが残ることになった。

『さて、これはどういうことでしょう』
私は授業の記録から、林先生がきちんと授業を展開しているなあと思うのだが、学生たちにはこの展開の妙がわからない。なんでもないやり取りの中に、展開の妙があるのだが、そこは読めていない。先生の視点でこの記録を読んでいない(読めていない)。子どもの視点で読んでいるのである。

『例えばね、ここはどう?』
と少しだけその展開の妙を説明した。
「なるほど」
となる。説明するとわかるのだから、まだ良しとするか。年明けに実際の授業のビデオを見ることにする。

授業を見るのと、授業をビデオで見るのではずいぶんと違う。しかし、テキストで記録を読み、ビデオを見ることで、通常よりは深い学びを得ることができるのではないかと思われる。

昼休みは、来年度の新入生キャンプのオリター諸君との顔合わせ。新入生キャンプの目的、留意事項、オリター諸君に期待することを手短に話す。

私があれこれやり方を言うのではなく、目的を示してあとはオリター諸君に任せる。これが私のスタンスである。一回生からの質問があった。

「打ち合わせは、先生から連絡が来て集まるのでしょうか?」
『ん、違います。先ほど示した目的を達成するために、君たちがスケジュールを立てて活動を始めます。私は相談があれば、聞きます。来てくださいと言われたらスケジュールを調整します。君たちが目的達成のため、ミッションコンプリートのために自ら動いてください』
という話をする。

学生たちに力をつけるには、あれこれ言う必要はない。目的、留意事項、期待すること。この三つで良いと考えている。

さらに昼休みに、学生が相談にきた。授業で
『学校の役割ってなんでしょうかね』
と話題をふったら、それにこだわってあれこれ考えている学生である。百科事典などで調べてきた結果をA4で5枚ぐらいにまとめてきたので

『君は相当暇なんだね』
と言うと、
「暇じゃありませんから」
と言いつつ、コメントを求める。
ならばと思い、
『2万字ぐらいの論文を書いてみたらどうですか』
とアドヴァイスする。学校の役割を2万字で書ききれるかどうかと言うとかなり難しいであろう。しかし、論文の習作として書いてみるというのは面白い試みでもあろう。

私の修士論文を取り出して、あれこれ論文の書き方のインスタントな指導を行う。
『まー、君は暇だから書けるかな』
「先生、暇じゃありませんって」
『まー、じゃー、そういうことにしておこう』

どんな論文になるのか、これはこれで楽しみである。

学生の論文は楽しみだが、私に与えられている原稿は楽しみではないf(^^;。
うーん、締め切りは一週間延ばしてもらえたのでほっとしているが、年末年始を過ごすためにはなんとか仕上げなければならない。「学校でしかできない授業」というお題である。私が読んでみたいものだと思うタイトルである。

そうか、私が読んでみたい内容を書けば良いのか?
そう簡単にはいかないだろうが、これもヒントにしつつ書き進めよう。

ということで、午後はずっと研究室で原稿書き。
うーむ、うーむ。






















散歩してこよう。

を、歩いてきたらアイディアがまとまってきたぞ。
あと一週間でなんとかなりそうだ。
学科の忘年会をキャンセルして頑張った甲斐があったようだな。

うし!

2008/12/17

ああ、能天気

昼過ぎから会議。
学生部会議に、学科会議に、学部教授会に、センター試験監督者説明会議。
四つ。
今日はなぜか非常に眠たくて困った。

会議で配られた資料をノートに書き写しながら、眠気と戦う。
するとどうだ。びっくりしたことに書きかけの原稿のアイディアが浮かんできたのだ。
構造主義ではないが、アイディアがあって言葉が生まれるのではないことがわかる。
言葉があって、その後にアイディアや考えが生まれてくるのだということを実感する。慌てて、そのアイディアをノートに書き写す。

ラッキーである。

昨日のリクルートのインタピューで、こんなことを聞かれた。
「先生は、そんなにお忙しいのに、いつ授業の準備をされるのですか。いつ、そんなことまで調べていらっしゃるのですか?」
と。学生たちにも聞かれることがある。私は
『いつも』
と答えている。
そう、いつもなのである。

わからないことをずっと考えていると言った方がいいのだろうか。そのずっとというのは、一つのことをずーっと考えているのではなく、次から次へと分からないことを順番に思い浮かべているということに近いだろうか。

わからないことを、わからないということで捨ててしまわずに、わからないことを確認しているという言い方の方が正しいのかなあ。

(ん。今日もこのことはわからなかった)
と。

ところが、これがあるとき
(あ、そうか!)
とわかるのである。だから、授業の準備や教材研究はいつもしているというのが正しいのかなあ。

私が敬愛しているディベーターである瀬能先生は、
「人生はディベートで、試合以外はすべて準備時間」のようなことを話しているが、ちょっとそれに近いものがあるかもしれない。

だが、昨日のインタビューではもう少し突っ込んだ説明をしてしまった。

『私ごときが言うのもなんですがね、○○について(調べよう!)と思っているうちは、多分ダメなんだと思います。ノーベル賞の発見などと比べるつもりもありませんが、ただ、偉大な発見を見ていると、○○を発見しようとしているうちはあまりうまくいかないのですが、○○を目的にしようと頑張っていると、意外な凄いものを発見するという感じでしょうか。

○○を目的に授業をつくりたい、子どもたちに◎◎のような大人に育ってほしいというような目的を持ってあれこれやっていると、その方法とか必要なものとかは、向こう側からやってくるのではないかと最近思っています。自分で探しに行っているうちは、まだ違うんじゃないかなあと思うのです』

本当かどうかはわからない。だけど、私がディベートに出会ったのも、林竹二先生に出会ったのも、他にもいろいろとあるが、なんか、今から思うとそんな気がして仕方がない。

「意識してアンテナを高く張る」という言い方がある。ま、よく言われる言葉にするとこんな言い方になるのかもしれない。でも私の実感としては、ちょっと違う。

目的を持って前へ前へと進んで行くと、向こうから笑顔で大事なもの、大切な人がやってきてくれるという感覚である。わからないものを簡単に捨てないで、持ち続けていると、向こうから答えがやってくる感じだ。

なんと能天気な私なのだろうかと、さすがの私も思うのだが、でもそんな感じだ。

今年もあと二週間だ。
師走、時間が過ぎるのはいつもよりも早い。
押し詰まると、密度の濃い時間の中で、また良い出会いがあるような気がする。

ああ、能天気だ。

2008/12/16

最も悲観的に準備して、 もっとも楽観的に対応すること

今日の学級担任論は、私語をどうやってなくすかということで、今日で今年の授業の分は、終わった。

私の結論は、変わらない。簡単である。教師が授業の力をつけるである。教師の授業の力のあるなしで、そうとう授業中の私語は変わると考えている。詳しくは『授業規律で学ぶ力を うるさい授業よさようなら』(家本芳郎編著 学事出版)に小論を載せてあるので、興味のある方はご覧頂きたい。

私はこの学級担任論の授業をしながら思うことがある。そして、それを今日の授業で話した。

『私の理想は、私のこの授業が君たちの教育実習や、学校教育現場で役に立たないことなんだな。「池田先生はあんな授業をしたけど、そんなの必要なかったね」と言われるような学校に君たちが赴任することを祈っているのだよ。

中には本当にそういう諸君もいるだろう。ま、そういう諸君はそれでよい。しかし、そうではない学校に行った諸君たちが、きちんと仕事ができるためには、私が教えていることが大事になると思うのだ。

本当は、私の教えていること等必要のない学校が社会にあると良いと思うのだが、今の時代それはなかなかないからねえ』

初代内閣安全保障室長の佐々淳行氏は
「危機管理の要諦は、最も悲観的に準備して、 もっとも楽観的に対応すること。最悪なのは、楽観的に準備して悲観的に対応すること」
であると言っていたのを覚えているが、
(これは私の学級担任論の授業にも当てはまるはあ。授業づくりにも当てはまるなあ)
と思う。

うまくいく時は、なにもしなくてもうまくいくものである。しかし、問題はダメなときにどう凌ぐかである。凌ぎ方を身につけて、うまくいく時はその波に乗って特にあれこれせずに楽観的にやればいい。だがそうでないとき、この授業で学んだあれこれが役に立つと良いなあと思っている。

授業後、リクルートの取材を受け、さらに原稿書きや依頼状書き。書いてばかりである。
大変ではあるが、何かをつくり出すというのはこういうことなのであろうと思って、ひたすら書いている。

新しい学部ができます。「人間発達学部」です。

新しい学部ができます。
「人間発達学部」です。

本日新聞発表がありました。
京都橘大学に2010年から新しい学部ができます。

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2008121500084&genre=F1&area=K00から、
引用開始 ーーーーーーーーーー

小学校の英語教育に対応
京都橘大「人間発達学部」新設へ

 京都橘大(京都市山科区)は15日、小学校での英語教育に対応した教員養成のカリキュラムを設けた新学部「人間発達学部」を2010年4月に開設する計画を発表した。小学5、6年の授業で11年度から実施される「外国語活動」に関連する科目を開講し、英語教育に強い学部を目指す。

 新学部は、小学校や幼稚園の教諭免許、保育士資格の取得を目指す「児童教育学科」(定員120人)と、英語を中学・高校の教員免許の取得やビジネスに生かす「英語コミュニケーション学科」(同50人)の二学科制。両学科を、現在ある文学部から独立させ、新学部とする。

 児童向け英語の関連科目の設置のほか、学生が小中学校の遠足や運動会に補助として参加する機会の確保(児童教育学科)、半年間の留学の必修化(英語コミュニケーション学科)で、「コミュニケーション能力を伸ばし、教員採用試験でのアピールにつなげる」という。
 また、大学と大阪府三島救命救急センター(高槻市)は同日、学術教育交流協定を結び、現代ビジネス学部救急救命コースと看護学部の授業を同センターの医師らが担当することを決めた。文学部日本文学科は来年度、俳人の黛まどかさんを客員教授に迎え、学生とともに学外で俳句を作る授業を行う。

引用終了 ーーーーーーーーーー

私の所属する児童教育学科は、新しい学部に移動することになりました。学科定員も多くなります。ますます活気のある学科、学部、大学に育てて行きたいなあと思っております。

今後とも、よろしくお願いいたします。

2008/12/15

仕事の一日

12/15

昨晩の忘年会は、終電の一本前で帰ってきたのであるが、気持ち良く酔ってしまった。
今朝はさすがに6時台には起きることはなかった。

が、寝ていたら娘が体の上にあれこれものを載っける。ビール瓶、日本酒の四合瓶などあれこれ。確かに飲んだ呉れて寝たが、この有様はないよなあと思いながら起きる。

ちなみに娘は、いまマグカップで乾杯をするのがマイブームである。

研究日の今日は、一日パソコンに向かって仕事。
原稿書きと来年度の授業のシラバス書き。
なんとかシラバスの方は終わった。

来年度から専門ゼミが始まる。
これは楽しみにしている。
シラバスを書きながら、あれこれ構想を練るのは、大変だが楽しいものだ。

夜、近くのイルミネーションを見に出かける。
寒い中、娘はせっせと庭にある小石を拾っては道の反対側に移動している。
君は何を目指しているのかね。

今日は琵琶湖で蜃気楼が出たというニュースがNHKで流れていた。
豊かな自然に囲まれて、仕事の一日であった。

写真は、数日前の朝焼け。クリックで拡大して見て頂くと、より雰囲気が伝わると思います。
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いろんな人と一緒に、風呂で世間話

12/14

のんびり寝ていれば良いものの、やっぱり5時台に起きてしまう。
ま、いいか。ベランダからリビングに持ち込んだハンモックに転がって寝ていれば良い。
と思っていたのだが、読書に突入であった。

そうこうしているうちに風呂が沸いたので、風呂で読み続けることに。
『こんな日本でよかったね』(内田樹 バジリコ)である。

世の中の内田先生ファンは、ブログを書かさずにチェックし、『橋本治と内田樹 対談集』『街場の教育学』を読んでいると思うのだが、私は「まだ」『こんな日本でよかったね』である。それは内田先生の出版ペースが早いと言うのもあるが、それ以外の理由もある。

一時期、私は内田先生のブログを毎日欠かさず読んでいたのであるが、ある時からこれを止めた。嫌になってのことではない。なんというか、もどかしさを感じてしまうようになったのだ。なんだろうかとイライラしていたのだが、分かったのである。

それは、書き込みができない苛立ちであったのだ。

私は、基本的には本は、買う。それは書き込みができるからだ。書き込みができない読書は読書ではないと思っている。だから、本を読む時は筆記用具を必ず用意する。筆記用具がない時は読書はしないという具合である。

中谷 彰宏さんは、「アイディアは、筆記用具の数できまる」のようなことを書いていたと思う。これは筆箱に何本ペンが入っているかと言うことではなく、常にすぐに書ける状態になっている筆記用具が手元にどれだけあるかと言うことであろう。

枕元、トイレ、リビング、車の中、風呂。鉛筆があるかどうかと言うことだと思う。(ただ、最近はこれを娘が遊ぶので、ちょっと困っているが)ちなみに、キーホルダーと携帯電話にもボールペンはぶら下げてある私だ。

ブログだと、この書き込みながら読むことができない。書き込むのはアイディアであったり、批判であったり、ため息であったり、思いつきであったり。要は作者と会話を楽しんでいる訳である。これができないので、イライラしていたのだと言うことに気がついた。だから、止めたのである。

で、風呂なのである。
『こんな日本でよかったね』を風呂で読みながら、不思議な感覚に捕われた。
なんというか、内田先生と一緒に風呂に入って世間話をしているような感覚である。

もちろん、『こんな日本でよかったね』は世間話のような感覚で読めるような本ではない。ではあるが、温めのお湯の風呂で半身浴で、鉛筆で書き込みをしながら読んでいると、そんな感じになった。

面白いなあ。
この感覚を手に入れた私は、これからいろんな人と一緒に、風呂で世間話ができるな。

2008/12/14

なんのことはない幸せな休日

12/13

のんびり寝ていようと思ったら、娘がワシワシと起きてリビングに歩いて行こうとしているので、一緒に起きる。娘の体内時計は正確である。

午前中は懸案であったチャイルドシートの取り付けである。今まで後ろ向きにしていたのを、前向きに変えるのである。今年の一文字の「変」である。

一回車から取り外し、きちんと説明書を読む。
『ふむふむ』
改めて読んでみると、いままでちょっと間違った付け方をしていたのに気がついた。ちゃんとつけていないチャイルドシートが多いと知っていたが、まさか自分がそうだったとは。事故にならなくて良かった。今回はしっかりと間違いなく取り付けることができた。

奥さんを駅まで送って、私たちは家で昼ご飯。奥さんは息抜きと年末年始の準備のために錦市場へ向かった。私は家で娘の昼ご飯を食べさせ、読書。その後、昼風呂に一緒に入り、出かけることにした。

カーナビをつけると、街中真っ赤っかである。そうだよな、ボーナスがでた最初の土曜日だもんな。街も混むわ。ではあるが、大津のパルコと西武に出かけた。娘の手袋を買ってあげたいなあと思った訳である。

パルコの無印良品とユニクロを見るが、これと言ったものはなし。そこで隣の西武に向かう。一階の食料品店の並ぶコーナーをうろつく。なんとなく魚の顔を見ないと落ち着かないのである。

気がつくと、娘は珍味の袋を整頓していた。なんというか、右から左に移動するのが今の彼女のブームなのであるが、それをお店でやっていた。売り物であるし、食べ物であるので止めさせようと思ったら、これが奇麗に並べるので、それが終わるまで待つ。

できたところで抱っこしたら大泣き。しかし、ダメです。そのまま肉のコーナーへ。たしか西武の肉のコーナーにはあの肉があったはずなのだ。それはラムチョップステーキ肉である。

私はこれがことの外好きである。ところが、家の近くのジャスコ、大学から帰ってくるところにあるスーパーと、置いてあった店が置かなくなってしまったのだ。か、悲しい。確かに、半額になるまで買わなかった私も悪いが、半額でも買うんだから置いてくれないかなあ。

で、どうしても食べたい時は三条の明治屋まで買いに行っていた。だが、大津の西武にもあることが分かった。泣き叫んでいた娘にこの肉のパッケージを持たせたら、泣き止んだ。ははは。現金だ。

肉の他に何かあるかなとうろうろしていたら、あった。「ビスコ」である。東京にはビスコと言う名のゲームソフト屋があるが、このビスコはお菓子のビスコである。

子どもの頃は好きだったなあと思い、早速購入。そして、娘に持たせた。もう、娘はビスコも食べられるぐらいに成長しているのだと思うと、ちょっと感動。

5階に子供服売り場があるので、エスカレーターで上る。勝手に歩いていたのに、このエスカレーターの前に来ると、さっと手を出して握ってくれとやる。うーん、賢いなあ。と思ったのは最初だけ。

これが気に入ってしまって、結局五階では降りられず六階へ。そこにあったペットショップで子犬子猫を鑑賞し、結局また一階までエスカレーターで降りてきておしまい。

そこで奥さんに電話。すると、今山科駅に到着とのこと。慌てて駅まで迎えに行くことに。娘は新しいチャイルドシートでぐっすり。

なんのことはない幸せな休日であったことよ。

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