提出が難しい疑問
他のブログはわからないが、ニフティのブログを作成する画面は、写真のようである。
最近ヴァージョンアップがあったのだが、なかなか面白い。何が面白いかと言えば、「ブログネタ」というものがあるのだ。
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人間の賢さは何を持って示すことができるのであろうか。
こんなことを考えたことがある。私は三段階で人間の賢さの規準が変わってきているのではないかと感じている。
1)たくさん知っている。
知識である。ありとあらゆるものを知ること、つまり博学であることが賢いという規準である時があった。いまでも基礎的な知識は必要である。しかし、これはコンピュータのHDに比べればさもないことである。ネットに繋がった知の蓄積は、一人の人間の知識には及びようもない。たくさん知っているは、規準から外れた。
2)調べ方を知っている
わからないことがあったとき、どの本を見れば良いのか。どうやって調べれれば良いのかを知っている。これが賢さの規準であったことがあるだろう。しかし、これはグーグルによって幕が引かれた。
もちろん、百科事典や専門書などをきちんと使いこなすことは大事であるが、グーグルの手軽さは手放せない。これも規準から外れた。
3)疑問に思うこと
最後は、これである。人間は曖昧な記憶ができ、忘れることができ、疑問に思うことができる。これは現在のコンピュータにはできないタレントである。だから、1)と2)を踏まえた上で、3)ができる人は賢いのではないだろうか、というのが私の主張である。
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ところが、この「ブログネタ」は3)をさせなくしている。という言い方が良いのかわからないが、疑問に思うことがなくてもブログが書けるようになっているということであろうか。
疑問に思うことは、簡単なように見えて実は結構難しい。知らないから疑問に思うというのは、まあ、あるだろうが、知ったことで疑問に思うとか、何事も問題ないと思っていたのに、考えてみると疑問が浮かぶとかそう言う疑問を持つことは、実は難しい。
学者たちは、この質の良い疑問が見つかるかどうかで、その学者人生の質を半分以上決めてしまうのではないかと思う。
だから、提出が難しい疑問がなくても書ける「ネタ」を提供するサービスをしたのだろう。
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そう考えるとまたわかることがある。
2チャンネルがあれほど流行る理由はいくつかあると思うが、私はその理由のうちの一つは、記事の引用だと思っている。
つまり、2チャンネルは新聞記事などを「ネタ」として張ることで、それについて書き込みという形で文章を載せて行くのである。逆に言えば「ブログネタ」はここからヒントを得ているのかもしれない。
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で、私の行っている「書き抜きエッセイ」も、始めた時は考えもしなかったが、これと同じ構造であることがわかるし、そのルーツは「論語」にまでさかのぼれるのかもしれないなあと思う訳である。
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