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2009/01/27

学級担任論で、今年度の授業は全て終わり

朝の読書は、風呂の中で。
昨日から読みかけの本が終わりになりそうだったので一気に読んでしまった。マーケティングと教育の関係をあれこれ考えさせるのに面白い本であった。

内田先生が『下流志向』で示したように、消費行動というものが教育を語るキーワードになっている現在、マーケティングから教育を見てみるということは、意味のあることではないだろうか。

もちろん、教育は経済活動ではないので、根本的に違うものがある。しかし、その一方で不易流行の流行の部分で見ると、今は消費行動と教育を考える必要もあるだろう。

読み終えた今、そんなことを考えている。

読書の面白さは、その読後10分にもある。
今読み終えた本を、もう一度書き込みをしたところを手がかりに読み直すのである。

書き込みは、読む前の私(A)が規準になって書き込みをしている。見直しは、読む前の私(A)が一冊を読み終えて、その一冊が付加された私(B)になっている。その付加された私(B)が、改めて読む前の私(A)が行った書き込みを再評価する訳である。これが面白いのだ。

(ほほう。ここに(A)は線を引いたのね。こんなことを思っていたのね)と(B)が思うのである。

この(A)と(B)関係がいろいろとある本が面白いわけである。いろいろあるのを楽しんでいると、風呂の読書はのぼせる訳である。

ああ、風呂上がりの冷たいお茶が美味しい。

今日の学級担任論で、今年度の授業は全て終わりとなった。
本日は通知表の書き方。

事前に近隣の小学校から協力を得て通知表を手に入れてあったので、新卒教員が配当されやすい2年生と4年生の通知表について、自分が2年生4年生のときのことを思い出しつつ、過去の自分の通知表を見つつ、書いてくるということを課題としてある。

自分が小学校のときには分からなかった、担任の愛情の言葉が、いま大学生になって読み返してみるとよくわかったという感想を持つ学生が多くいた。そうなんだね。子どもが真剣に生きていないとは思わないが、経験が少ない子どもには分からないこともある。担任は、その子どもから嫌われることも覚悟で、未来の成長のために厳しい言葉も言う必要があるのだよ。そんなことは話したよな。それが分かって良かったねえ。

通知表は、成績、所見、出欠席の三つの項目からなることが多い。今回課題に出した小学校もそうなっている。しかし、自分の時代のもの比べて、びっくりする学生である。英語の活動がもう通信簿に入っているのである。

今日の講義では、このそれぞれの書き方を説明した。

簡単言えば、

1)事実の蓄積
2)事実の評価
3)評価の記述

となるわけだが、1)がなければどうしょうもないことが、学生たちにはよくわかったようだ。とにかくメモを取れ、とにかく文章を書けとやってきた意味が少し分かったのではないかと思う。

具体的な資料を見せながら、どのように成績をつけ、所見を書き、通信簿を作成するのかを示した。

学生たちは、とにかく空いた口が塞がらないという感じであろうか。絶対評価と相対評価の違いはまあ何となく分かっているが、絶対評価の場合、規準と基準の違いが分からなければどうしようもないし、それを奇麗に計算するための、エクセルのマクロがこんなふうになっていて、これも使えないとダメかと思うと、だんだん身の置き場が無くなって行くのではなかっただろうか。

しかし、私は

『むしろ、エクセルを使わないで成績をつけている先生方の方が、私は驚きです。さらにいえば、こんなの教師だから大変なのではなくて、社会人になればあたり前のようにやることです。教師だから大変の部分は実はあまりないですよ』

と追加する。

二回生の後期でこの授業があって良かったと思う。
三回生ではちょっと遅い。自分に不足しているところを見直す時間が少ないだろう。

さらに三回生の後期から教育実習に行くのだから、今やっておけば実習のときに観察する時の観点も違ってくるだろう。学級担任論でやった項目を観点にして教室を見ていくと、ずいぶん見え方が違ってくるはずである。

この授業では、学級担任の仕事を通して、子どもに関わるとはどういうことなのかを考えることを大切にしてきた。指導の技術を理解し、それができれば指導できると勘違いされないように、あれこれ話してきた訳だ。

今日の通知表のことだって、エクセルが使えれば通信簿が書けるなんて思われたら、大変な勘違いである。エクセルはあくまでも方法である。目的は、子どもたちを伸ばすことにある。学級の集団を通して子どもたちを伸ばすことにある。そのために、評価をするのだし、そのために通信簿を書くのである。

生きて行く上で、目的と方法を取り違えることはよくある。この授業ははじめて担任になったときに混乱しないように、倒れないようにと、最低限の基礎的な方法を教えてきた。そしてその一方で目的と方法を取り違えることのないようにとも話してきた。この技術はなんの目的を達成するために必要なのかを考えるようにさせてきたつもりだ。

来年度、教育実習に行ったときに学生たちが
(あ〜、そういうことか)
となることを期待したい。

と、まあこんな風に書いてきたが、この授業をここまで終えるのには、いろいろと準備も大変であり、苦労もしてきた。グーグルで「学級担任論 シラバス」で調べてみると、ほとんどヒットしない。

二年前にこの授業を実施することが確定した時から、シラバスを何回か書き直し、横浜の野中信行先生や東京学芸大学の山田雅彦先生にご意見を頂いたりしながら、さらに書き直し、授業に関連する資料を集め直し、整理し直しとしながら進めてきた。

学生たちは、授業のある毎週火曜日が来ると、ああ課題が終わっていないと憂鬱だったと思うが、私は私なりに授業の準備に追われていたものである。最低、二週間前に授業の最終準備を終えるようにあれこれしてきたが、直前になって変更するということもあり、スリリングであった。

中学校の授業では、教科書があり、(見なかったけど)指導書があり、(あまり見なかったけど)先行実践があり、とそれなりに授業の準備の手助けはあったが、大学ではない。とくにこの授業はなかった。

それだけに、いま、やり終えたと言う感じは強くある。
もちろん、これを元に来年度もバージョンアップして行くのだが、しばらくはこのスタイルで行くことになる。この数年、立ち上げばかりやっているが、これで一段落。あとは、来年度から始まる専門ゼミに照準を合わせれば大丈夫だろう。

倒れることなく途切れることなく授業を続けることができたのは、野中先生、山田先生を始め、いろいろとアドヴァイスをしてくださった先生方や、膨大な資料を残してくださった故家本芳郎先生の御陰である。さらには課題とはいえフィードバックの感想を毎週書き続けていた学生諸君の文言によるところも大きいだろう。

将来は、この授業内容を元になんとか一冊の本が書けるぐらいにしてみたいと思う。
それが、アドヴァイスを頂いたことへのお礼であり、先頭を走ってしまった私の責任なのだろうと思っている。

授業が終わると、私を待っていたかのように電話とメールと書類の束。
あれがこうなって、そちらはお世話を頂いて、それはどうもすみませんとお詫びをし、で、この次はここをこうするのねと打ち合わせをして、え、それは良かったですねとメールを打って。さらには赤ペンを出してあれこれ校正をしてと。
これで一安心かな。

さあ、あとは、明日の近江八幡市の講演の最終準備だ。
ハンドアウトは出来ているのだが、これを80分で話し終わるように作り込まねば。
練習しなければ。

もう一踏ん張りだ。

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コメント

 学級担任論の授業が、今年度は終わったのですね。ほんとにお疲れ様でした。ぜひ一冊の本として、世に問うてください。待ち望んでいますよ。

>>野中先生

池田です。
今回のシラバス作成には大変お世話になりました。
先生から頂いた資料も活用しながら、15回を終えることができました。ありがとうございました。

いろいろと準備は大変でしたが、終わってみて、やはりこの授業が教員養成大学でないのは、おかしいと改めて思いました。日本中でこの授業が行われることを夢見て、さらなる準備をしようと思います。
ありがとうございました。

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