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2009/02/16

「貧困、格差、貧乏はどう違うのか?」

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滋賀県の民教連の集会に近江八幡まで出かける。「貧困・格差・競争をのりこえ、共同と学びを開く」 というテーマである。現場からの三報告があり、その後に、竹内常一先生の講演があるという構成であった。

実は、この構成を知らなく、先生の講演だけだと思っていたので、終了後、長浜の盆梅展に行くはずだったのだが、この構成ではちょっと無理。奥さんと娘だけ長浜に向かわせて、私は先生の講演で学ぶことにする。

「貧困、格差、貧乏はどう違うのか?」

先生は、言葉の定義からいま社会で何が動いているのかを解き明かして行く。その社会の動きは新自由主義を基調にグローバルスタンダードとして、創造的な破壊を繰り返して行く姿である。

社会の枠組みは、いろいろな力学が働きリストラクチャされていく。その、リストラクチャされるときに、政策が市民の方向を向いていることは、歴史上いまだかつてないだろう。

だから、市民がこちらに向かせる必要があり、その文脈の中で教師は、子どもの教育を受ける権利の中で、どのような実践を構築して行く道があるのかを模索されていた。

枠組みを見つめ、枠組みを問い直し、新たな実践を構築する。私が竹内先生から学んだことの一つはこれである。子どもの事実を押さえることはとても大事だ。しかし、子どもの事実は子どもが社会の中で生きている限り、社会の事実やさまざまな政策を並立的に理解する中で見て行くことが必要になる。

竹内常一先生の授業を受けていると、これは教育の授業なのか政治経済の授業なのかが分からなくなることがあった。「所得倍増計画」「期待される人間像」「経済同友会」「合校論」なんて話をされていたが、今日も「中央教育審議会議事録」「ホンダのF1撤退の意味」などの話が飛び交っていた。

竹内ゼミの卒業生は、国語教育の実践家として全国にいるが、文学と政治と教育を同時に考えながら実践をする基礎体力を身につけている。これって凄いことだと、改めて思う。

複眼思考で、並列思考をして行くことが、物事の本質を見極めることには必須なのだと改めて思う。物事の本質は、そこにあるのではなく、複眼思考で並列思考をしていくときに、そこに浮かんでくるようなものなのだろう。

大学時代に先生の授業を受けていたことが、いま私の中でそれが形となって出てくることを実感できることがある。教員になってから出会ったディベートやその指導方法の研究がここに重なって、あれこれ私を育ててくれていたんだなあと、思う。

「なんでいまごろ、こんな簡単なことに気がついたのかなあ。もっと早く気がついても良かったのになあ」

と先生は自分の研究を振り返りながら、講座後話されていた。最近先生の話が分かりやすくなったのは、俺も力がついてきたからかと自惚れていたが、そうではなく先生が核心を掴んで話されていたからなのだと、思い直した。

いろいろと勉強になるのである。

講座後、主催者が駅まで送りましょうと話していたら、

「ん、教え子が来てくれているから、駅まで送ってもらうから」

と言って私をありがたくも指名。もちろん、ミニクーパーでお送りする。本当は、長浜から奥さんと娘が帰ってくるはずだったが、タッチの差で会えず。ま、FOMAのテレビ電話で見てもらったからいいか。

先生を駅でお見送りして、しばらくすると奥さんと娘が乗った電車が近江八幡に到着。
改札口を出たところで待っていたら、ベビーカーから下りて歩いてこちらに向かってくる娘を発見。

手を振っていたら、娘は私を発見。
満面の笑顔になって、改札口に突入して行く。あわてて奥さんが切符を入れて扉が閉まらないようにナイスサポート。

御陰で娘はそのまま私の胸の中に飛び込んできた。
そのまま高い高いである。

良い休日であった。

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