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2009/03/30

学び合い 東京セミナーで考えたこと

3/28

盟友の筑田さんが実行副委員長をするという「学び合い」の東京集会の第一回があるということを知った。

スケジュールを確認すると、授業づくりネットワークの春の集会の前日ではないか。それは参加するせねばならぬと思い参加する。

前日は新宿のホテルに泊まったので、チェックアウトの時間ギリギリまでホテルであれこれ仕事をして、江東区に向かう。

ホテルの外に出ると、びっくりしたことに「雪」が降っている。街は桜の花が咲き始めているというのに。後から分かったが、この日の東京は、二月の気温だったとのこと。げにげに。裏地をつけたコートを着てきて良かった。

学び合いの会は、100人を越える盛況である。
基本的な考え方、模擬授業、実践報告と三本柱で行われる。実に贅沢な講座である。

しかし、私はここでも違和感が生まれてくるのを押さえられなかった。ここでもというのは、言い換えれば「どこでも」なのかもしれない。私はわがままに出来ているので、最初からすっと入るということは、ほとんどない。違和感から始まる。

だが、この違和感は結構大事なことだろうと思っている。

日常生活では、私はこれでも私のわがままを必死に押さえようとしている。社会と関わって行く訳であるからして、私の中にある好き放題したい私を、ぐっと押さえて日常生活を送っているつもりである。

ではあるが、学問とか研究とかというところでは、このわがままを解放していい部分である。みんなが同じことを考え、みんなが納得するのであれば、学問とか研究はいらない。学習である。

そこは、なんか違うんじゃないかなと違和感を感じ、それを立証していくことが、学問や研究の存在意義だと私は考えている。だから、日常生活では押さえているわがままを、学問や研究では解放してあげるのである。

「学び合いはどうなんでしょうか?」
と私のところに質問にくる先生や学生たちもいる。
私は
『そうだと思いますよ』
と答えている。

あれだけ論文を書き、業績を残している西川先生と西川研究室がの提唱されているものが根本からおかしいとは思えない。私も『学び合う国語』を一緒に書かせていただいているが、出来上がった本を見ながら、やっぱりそう思う。

ただ、今回セミナーに参加して、いくつか私の中にあった違和感を言葉にすることができるかもしれないと思うようになった。主に4点ある。学び合いの知見からさらに深く学ぶために、私はここを理解したいという欲を持っている。

1)良いクラス、良い授業、良い学年は学び合いが成立しているということ。

これは本当にそう思う。良いクラブ活動でもそうだ。
しかし、ここにたどり着くのに、西川先生が提唱される方法だけでいけるのだろうかという違和感がある。前提条件があるのではないかとおもうのだ。

私の仲間たちは、その前提条件をあれこれ自分とクラスの様子を見ながら作り出し、クラスを授業を高めている。西川先生はシンプルであると仰っているが、そこが落ちない。というのは、

2)みんなが出来ることを求めたとき、これを理解しない生徒がいるときの対応。

「先生の言うことを、なるほどと思う生徒が6割7割いるクラスであることが大事」

と仰っているが、これは結構難しいのではないかと感じている。私は
『みんなが出来ることを求めたとき、それを理解しない生徒がいた場合はどうするのか?』
と質問をしたのだが、
「それは、教育の目的を語り、人格の完成を目指すことを求める。それが公教育の目的だからです。ここは譲れません』
と仰ったが、私が出会ってきた子どもたちの中には
「法律? んなもん、関係ねーよ。勝手にやっていれば」
とか
「うぜーんだよ」
とか
「はあ?」
で終わる子どもたちもいた訳である。譲らないと言っても、受け入れない、受け付けない子どもたちがいる。

そして、そうであっても「子どもたちを有能であると信じきる」ことは、多くの教師に可能なのだろうかということである。信じきれないとき、教師はどうなるのだろうかということである。

3)教師が褒めることのできる立ち位置にいることの意味

学び合いは、強烈な教師コントロールの下に行われる実践である。ここを誤解している先生もいるのではないかと思っている。教師はクラスや授業での重石のようなポジションにいることを求められる。

しかし、このポジションはそんなに簡単に手に入るのであろうか。野中信行先生は、「生徒が生徒していないので、生徒させなればならない」と仰る。これはD.B.Gowinのstudentingという概念に近いものだと思うが、生徒していない生徒が、教室にいる先生にこの重石のようなポジションを簡単に贈与するとは思いにくい。

学芸大学の山田雅彦先生は、

『「先生である」ことは、教師が生徒からgiveされるものである』

と仰っていたと思う。そうだとすれば、果たして簡単に与えられるものなのだろうかという疑問が残る。

先生が子どもたちをいくら褒めても
(お前が褒めるな)
(は〜?、関係ないのに)
という態度を示す子どもたちは、いる。
これが、学び合いを導入することで、すっと解決できるのか。私には分かりにくい。

4)人格の完成ってなに?

ディベートでは、平和とか環境保護とか衆愚政治とか、ちょっとみると凄そうな言葉で、誰もが分かりそうな言葉で、しかし実際に説明させるとなかなか説明の難しい言葉のことを、ビックワードと呼んでいる。

学び合いが目指すのは、教育基本法の第一条にある「人格の完成」である。この言葉は、私が大学生の時代からずっと拘り続けている言葉でもある。

・人格ってなに?
・完成ってなに?
・そもそも人格は完成するの?
・誰が完成した人格を設定したの?
・設定されたかもしれない完成された人格って本当に正しいの?
・そもそも人格の正しさってなに?

そんなことをずっと考えている。
要は、私にとって人格の完成ってのが、ビックワードなのである。

もちろん、ボーッとしている訳ではなく、人格の完成を「大人になる」ということをキーワドにして、私は考え続けている。ただ、学び合いを実践する先生方が、この人格の完成を自分の言葉で子どもたちに説明するのは、結構難しいと思っている。ここだけは、子どもたちにきちんと、教師が説明するべきところであると思うが、これが結構難しいのではないかと思うのだ。

以上この4点が、違和感を元に、言葉に置き換えることを挑戦したものだ。上記1)から3)について、私は検証する手だてを持たない。これは、私には学び合いが成立するための前提条件のように思える。ここについてはこれから進むであろう研究を追いかけてみたい。

私が学び合いを通して、学びを深めたい、そして、学生の指導に役立てたいと考えるのは4)についてである。この部分の解明には関心がある。

あれこれしながら、考え続けたい。

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コメント

今、ブログにアップしました。

私は2)3)がどんな教師にもできるのかという所に疑問を抱いています。大学出たての初任者にも・・・と。

『学び合い』の根本的な考え方には大変興味があります。4月から自分の教室で実践してみます。

5月に、いろいろ意見交換できることを楽しみにしています。運動会は30日でした。23日は今のところセーフです(^^;)

>>西川先生

早速ありがとうございました。
読ませていただきます。

>>J.SASEさん

2)3)の部分はいかがであろうかという思いを抱いている先生は、私も多いのではないかと感じています。ここがすっきりすると、良いと思うのですが。

西川先生のブログで考えてみます。

大変勉強になりました。
素晴らしい議論だと感激しました。
学び合いがブームになっている気がします。
ブームでは困ります。ブームはなくなってしまうので。
池田先生の提案?には厳しさと優しさが内包させています。

>人格の完成を「大人になる」ということをキーワドにして、私は考え続けている。

このあたりが非常に卒論と関係するので,わくわくしながら読ませていただきました。

大人になる→人格の完成→教育の目標→コールバーグの道徳発達段階論

と,攻めていこうと考えていたのですが迷ってます。
内田樹先生の著書から考えのヒントを得たいなと。

>>得津くん

>>大人になる→人格の完成

ということですが、私はこの段階に疑義を挟むのであります。私はむしろ、この→は逆向きではないかという思いすらあります。

と、混乱させるかもしれないことを書いておきますね(^^)。
良い卒論になりますように。

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