『板書は、黒板のどこに書いたら良いですか?』
諸般の事情で4限の授業が1限に変更。
8時前に家を出る。
大学に到着すると、駐車場もまだまばら。
駐車場から研究室に向かう道を歩いていると、ドウダンツツジ、花水木、裏山にはまだ山桜が咲いているのが分かる。そして、
「ほ〜、ほけきょ」
である。うぐいすの鳴き声だ。
もう十分一人前の鳴き声になっている。
季節の移ろいを感じるのである。
◆
本日は、板書の仕方、チョークの使い方、声の出し方などの授業。
大学の教職課程でここまで教えなければならないのかという考え方もあるが、私はむしろ逆で、大学の教職課程であるからこそ、ここをしっかりと教えると言う立場である。
なんだかんだ言っても、板書と声は授業でとても大事なもの。ここがきちんとできるかどうかで、子どもたちの学習の意欲も違えば、結果も違うであろう。教育実習まであと半年。最低限のレベルにはたどり着かせたい。
◆
『板書は、黒板のどこに書いたら良いですか?』
と私は授業で問うた。
学生諸君の答えは、
「真ん中」
「右上」
「黒板の面」
などであった。
予想していた答えである。そして、まだ彼ら彼女らがレッスンプロとしての教師の考え方を十分に身につけていないことを知らしめる答えであった。
『すごく当たり前のことを聞いているんですよ』
答えられない。
『答えは、子どもから見える場所です』
あたり前すぎてなーんだ、なのだが、実はとても大事なことである。一生懸命に書いたって見えなければ、見にくければしょうがない。光の加減や教師の立ち位置によって見えなくなる場所がある。これを実演してみて、見え方の違いを分からせた。さらには、子どもに実際に確認して見える範囲を黒板にマーキングするということも大事であると話した。
授業は、教師のためにあるのではなく、学習者のためにある。当たり前のことである。しかし、当たり前すぎて見逃してしまい、具体的な教師の動きに反映されないことがある。この「子どもから見える場所」というのもその一つであろう。
私が教科教育法、または授業方法を教えるときに注意を払っている箇所は、ここである。
◆
さらに、ここには書けない一子相伝のようなチョークの使い方も伝える。学生たちが教壇に立った時、この使い方をすれば、教室は阿鼻叫喚に包まれ、その後、爆笑になると言うものである。
私の授業で実際にやって見たが、大学生でも大成功であった。
諸君の成功を祈る。
◆
授業後、じっくりと提出された課題の点検と、明日の研究入門ゼミの準備に勤しむ。どこから入って、どう展開しようかといくつかのパターンを考える。
実際は、明日の朝、または授業の直前に決めることが多い。これは中学校の時から同じ。生徒または学生の顔を見ないと、これだというものは出てきにくいのだ。
準備をして、あとは、出てくるのを待つ。それが大事なんだと思う。
面倒くさいけどf(^^;。
◆
家に戻ったら本が届いていた。
『明日の教室1 教師の一日・一年』
だ。すっきりとしたデザインで、とても良い感じに仕上がっていた。
みなさんのお手元にも届き始めると思います。
よろしくお願いいたします。
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