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2009/04/10

流行言葉からみる学生気質

キャンプの時にオリターが話している言葉で、日頃から気になっている言葉が使われていた。

絡む
〜だけ

である。

以前、ある学生が主催する学習会に講師で呼ばれた時のことである。会が終わってお礼のメールを実行委員の学生からもらった。その中に、

「これからも池田先生には絡んで行きたいと思います。よろしくお願いします」

とあったのだ。
(絡まんでよろしい)
とすぐにメールに突っ込みを入れた。

この「絡む」という言葉が若者の流行語であることは、私も知っている。だから、学生の中で使う分には特にあれこれ言う筋合いはない。しかし、お礼のメールにこれがあるのには驚いた。

この「絡む」が、閉校式のオリターの言葉からも出た。
「これからも、 もっと絡んでください」
のようにである。

反省会の時に聞いてみた。
『あれはどういう意味で使っているの?』
「ちょっと関係を持ちたいというか」
『そう。じゃあ、繋がる、結びつく、関係する、絡むだとどれが一番強いの?』
「結びつく、繋がる、関係する、絡むです」
『おもしろい。ここは私たちと一致する。しかし、私たちは絡むは使わないな』
「はあ」
『絡むは、糸が絡む、獲物を絡めとる、痰が喉に絡む、不良が絡むなどのように使って、いい意味ではないのは分かる? いや、怒っている訳ではないよ』
「はい」
『面白い。繋がる、結びつく、関係すると類語があるのに使わない。さらに、それが元々悪い意味であるという事も知っていて使っている。では、なんで君たちは、この言葉を使っているんだと思う?』
「???」

今ひとつの気になる言葉が「〜だけ」である。曰く

「栞だけ持ってきて下さい」
「筆記用具だけ忘れないで下さい」
「時間だけ守って下さい」
「返事だけしてください」
「体調だけ注意して下さい」

である。私に言わせれば、この「だけ」は「を」「に」で済む言葉である。ところがやたらこの「だけ」を使って話すのである。そして、本人たちはそのように使っているという自覚がない。私が指摘して気がつくのだが、すぐに「だけ」を使って話しているという有様である。

これは話の構成、就中ナンバリングが出来ていない事が引き起こしている問題とも言えるだろう。「注意が5点あります。1つめ、栞を持ってきて下さい。2つめ、筆記用具も持ってきて下さい。〜」のようにすれば良い。思いつきで話すと、このナンバリングが出来ない。思いつきで指示を出されてしまう児童生徒はたまったもんじゃない。

だが、この「だけ」は話の構成だけが原因とは言いにくいのではないかと感じている。

「絡む」も「だけ」も、いまの若者に特有な「やさしさごっこ」に起因しているのではないかと思うのである。

絡むは、「ちょっと関係を持ちたい」ときに使うのである。逆に言えば「深く関係を持ちたくない」のであろう。深く関係を持つということは、相手の人生に立ち入る事である。これを避けたいのである。なぜならば、相手を傷つけるようなことは「やさしい」若者たちには出来ないし、許されないからであろう。

同様に、「だけ」というのも、この「やさしさごっこ」に起因している流行語ではないかとも思っている。相手が大変さを感じさせないように、傷つかないように、少しだけやってくれればいいからねという思いで「だけ」を連発するのである。私はあなたを大変な目に遭わせていないよ、遭わせる気はないからねというメッセージが「だけ」に含まれていると思っている。

というようなことを反省会で話すのであった。
学生たちは、深くうなずいていたので、そんなに外れても居ないのだろう。
そうだとすれば、面倒くさい人間関係を生きているのだなあと思う。

意図的に相手を傷つけて行こうとする人間も居なくはないが、普通に生活をしていても誰かを傷つけ、傷つけられるのが生きて行くという事だ。逆に意識せずに喜びを与えたり、もらったりする事もあるのだから。

ここを了解しない事には、社会との関わりを適切な関係で結ぶというのは、難しいだろうなあと思う。

また、学生言葉として、流行語として使う分には私は特に何も言う事はないが、言葉というのは使っているうちにその人の思考や行動を規定することになる。そして、コレが意識されにくいのが特徴である。

さらに、フォーマルなところできちんとした言葉を使おうとしても、意識されていないで使ってきた学生言葉は、フォーマルな場所でも意識されずに顔を出す。これが怖い。

『ま、自分の会話を録音して聞いてみる事だね。すこしは、意識出来るかもしれないね。今から始めれば、直る可能性は高まるよ』

んなことを言った。
相変わらず説教の多い私である。

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コメント

ちょっとだけ絡んでいいですか( ^ω^ )

この二つが流行していることは初めて知りました。
池田先生の分析に納得しました。
「絡む」のような少し毒のある言い方は、てれがある場合に使うので、他のふさわしい言い方がわかっていたとしても、それを使って「あたり」を弱めるのでしょうか。
相手を思いやるように見えながら、自分を守ることになっているという気がします。じっくり考えたいことです。

>>spring先生
ありがとうございます。

>>「絡む」のような少し毒のある言い方は、てれがある場合に使うので、他のふさわしい言い方がわかっていたとしても、それを使って「あたり」を弱めるのでしょうか。

コミュニケーションのとり方の一つに、相手にナイフを振りかざして、相手を傷つけていくというようなものがあると思います。嘗てこのコミュニケーションを取るタイプの管理職と一緒に仕事をしたとき、私は相当嫌な思いをしました。ですが、それを笑いに変えてさらりと流す人がいるのを見て、勉強せねばなあと思ったものです。

この相手を傷つけて行くタイプのコミュニケーションは、漫才の突っ込み型と言っても良いでしょうか。ムキになって反論するのではなく、ボケるという受けを要求するようです。関東圏より関西圏の方が多く見られるように思います。

>>相手を思いやるように見えながら、自分を守ることになっているという気がします。

御意。
実に面倒くさいコミュニケーションをしているなあと思うわけです。

ぼくは、「つながる」が個人的に好きです。
見せる・創る・つなげる
が6年生には大切だと話しています。

教師が言葉を愛しないと
子どもはそうなってしまいます。

大学生の頃、そういう土壌を
創っていきたいものですね。

ま、できるだけ努力をします。
育てると、育つはずいぶん違うものですからねえ。

フヂサキです

 面白いですね〜。これ、管理職として今のマジメで優しい若者を見ていると、とてもよくわかります。
 大人になったら本来は「コミットする」が正しいのではないでしょうか。僕はコミットをよく使います。しかし、「絡む」はコミットにある「最後まで責任を取る」「リスクも承知している」というニュアンスを避けている印象を受けます。
 こんなことを、僕はいつもスタッフに厳しく言っているのですが、不真面目なわけではない彼らに、「仁義」とか「落とし前」なんて言う言葉を使って説教していると、自分が何だかヤクザの親分になったような気持ちになります(笑)。でも、ホントに社会はそう言うことで成り立っているのに・・・と、悪気の無い本人達を気の毒に思ってしまいます。

ここいらを考え始めるとキリがなく、また面白いものです。

入試等では、出来ない問題は解かなくても良い。出来る問題を解け。さらには数学等では部分点で稼げ等の指導があります。

すると、受験勉強と社会とを混同する若者は、

1)出来ない問題は、やらなくても良い。
2)やりきれない問題は、途中までやれば良い。

と学習することになります。
ところが、「仁義」とか「落とし前」が必要な社会では、これらが全く逆になるわけです。曰く、

1)出来ない問題を解決せよ。
2)やり始めた以上はきちんと最後まで問題を解決せよ。

と。
私は、大学一年から、このことを叩き込むことが大事で、これが大学でのキャリア教育の胆の一つではないかと思っております。

どう?

フヂサキです

 (笑)まさに!
そうかあ、受験の思考と考えれば、いろいろと納得できますね。つくづくマジメなんですね。悪い意味ではなく・・・。
 確かに失敗することに必要以上に怯えている人は多いですね。学生の間は失敗しないためのいろいろな勉強をする時間があるけど、実際に社会に出たら失敗しながら覚えていくというシーンの方が圧倒的に多い。でも、経験値としては勉強で身に付けるよりも相当に高い学習ができるので、むしろ失敗できるのはありがたいことですよね。
 しかし、彼らはマジメなので「失敗しないように勉強します!」と本気で専門学校のホームページを調べたり、資格を探したりし始めるんです(!)。結構、イイ線いっている子で、やりたいことや使命感もはっきりしている子が、こういうアプローチを始めようとするのを見ると、「オイオイ、ちょっと待て!」と、人生の先輩として仁義や落とし前を引き合いに出してアドバイスをします。逆に言えば、礼や義理を尽くすことを、始める前に覚悟したり、腹をくくりさえすれば、失敗なんて恐れるに足りないと話をします(これが僕の言うコミットです)。
 資格を検討する彼らのアプローチは、手順として正しすぎるほどに正しいのですが、最大の問題は人生は意外と短いということですよね(笑)。キャリア教育は優秀な方の短い人生をよりよい社会のために効率よく利用させていただく準備なのでしょうか。

最近読んだ本の中で養老先生が面白いことをおっしゃっていました。「危機管理」という言葉はおかしいというのです。管理できるものは、危機ではないというのです。

本当の危機の時はただ、おろおろするだけである。そのときに、必要なのはただ「覚悟」であると。

フジサキくん、養老先生と同じこと言っているのでびっくりしましたよ(^^)。

世の中には手続的整合性の向こうにある正解と、結果オーライの正解と大きく二種類があり、受験勉強は前者、社会では後者であると思うわけです。ここでいう結果オーライというのは、既成概念に捕われてまたは、定石だけに頼って取り組むのではなく、あれこれやって結果を出すということです。

社会に出るとここでパラダイムの変換が求められます。まじめに受験勉強をしてきた諸君には、ここが分かりにくい。私はもともと後者だったので、受験勉強では苦労したわけですが、社会に出たらなーんだ良かったんだと思ったわけです。

塾業界にも携わっていた私は、この両方がよくわかるのでなんとかこの辺りの通訳をしたいなあと思うわけです。難しいけどね。

ま、分かっているフジサキくんに言ってもあまり意味がないのだけどねf(^^;。

フヂサキです


養老先生が仰っていたようなことに似ていることを、以前いた会社の上司が言っていました。これも名言です(笑)。

「お客さんのためにかけたコストなら、困った顔して請求書をもって社内をウロウロ歩いてりゃいい。」

深イイと思いません??

それから、パラダイム変換の「通訳」は僕もずっと悩み通しです。一つ思うのは学生時代にミッション遂行型の取り組みに慣れるのは効果的ではないかなと思います。ウチでは平気で「100万の予算で200万の車を買え!」みたいな、禅問答のようなミッションが出されるわけですが(笑)、不可能と思えたものを可能にした時の高揚感は若いうちに体験しておいて損はないと思います。

>>以前いた会社の上司が言っていました。これも名言です(笑)。

名言ですね。
やっぱり、パラダイムの変換には良い上司や、メンターに出会う必要があるのでしょうね。

では、どうしたら良い上司に会えるのか。メンターに出会えるのか。私たちに出来るのは、良い上司になろうとすることであり、メンターになろうとすることであります。が、良い上司であるかメンターであるかは、自分では決められないわけです。

となると、若者が自分で良い上司やメンターに出会うということになります。はははは、堂々巡りですね。

ただ、その禅問答見たいな課題をクリアする中で、自分の今までの価値観では見つけることの出来ない解決の方法を手に入れるというのは、十分ありだと思います。

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