本日入学式
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本日入学式。
幸いなことに晴れた。
桜も見頃だ。
これで児童教育学科は、三期生を迎えることができた。
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「大学の先生は、時間があっていいねえ」
と言ったのは誰なのだろうか。おそらく10年前までのことなのだろう。いまや、小中学校よりもスタートは早い。授業そのものは4/10
から開始だが、その前にガイダンス、オリエンテーション、健康診断、新入生キャンプなど多くのことがある。これをやりながら裏番組では会議が目白押しなのである。
ただ、本学の場合この行事を仕切ってくれるのがオリターと言う、先輩の学生たちである。後輩の面倒をかなりの部分で見てくれる。私は、このオリターの指導を担当しているので、またそれなりに忙しさが増えるのだが、成長しようとする意欲の高い者に指導をするのは、こちらもやる気が刺激されてくる。
一週間後の新入生の成長と、オリター諸君の成長が楽しみである。
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仲間のブログを読むと、離任式であった先生が多い。
公立の学校では、転勤がある。
転勤は、仕事人としての一つの「死」である。
教育は、文脈で行われることが多い。一つの指導をするにしても、それがその指導の先に繋がるし、また、その一つの指導は過去の指導の上に乗るものである。
簡単に言えば、
「ああ、池田先生はそれはこういうことを思ってやっているんだよ」
と先輩から後輩へと伝えられることがあるということでもある。
転勤をすると、まずここがなくなる。そしてまた一から作り直すこととなる。つまり、「再生」である。
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私の場合、ディベート指導をまた最初から立ち上げるのが大変であった。機関車の車輪のように、動き出せば滑らかに行くのだが、最初のゴロッという部分が大変なわけである。
ただ、外側から見れば、あちこちに転勤することでいままでディベートのデの字も知らなかった子どもたちに、ディベートを体験させることが出来たとも言えるし、入門期指導を研究していた私にとっては、環境の違うさまざまな子どもたちに出会えることで、その違った環境でもうまくいく理論を探ることができたとも言える。
渦中にいるときは、その出来事の正当な評価というのはなかなかできないものである。むしろ
(なんで、俺がこんな目に遭わねばならぬのだ)
と思うことがほとんどである。人生の不条理をあれこれ思うのである。
しかし、私の人生が一つの意味をなすとすれば、あの不条理を我がごととして背負ったから、意味をなしてきたのだと思う。
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昔、遠藤周作さんのエッセイを読んでいて、こんなのがあった。
旅人が、旅をしていたら乞食に出会った。
乞食は
「寒い。抱きしめてくれ」
という。
旅人は、抱きしめてあげた。
乞食は
「まだ寒い。もっと抱きしめてくれ」
という。
旅人は、さらにきつく、きつく抱きしめてあげた。
そうしたら、乞食は、神に変わった。
これだけである。
遠藤周作さんは、人生はそう言うものだなあと、最近思うようになった。というようなことを書いてあった。
中学生だった私は、
(ふーん、なんだかわからないが、そうなの?)
と思った。が、最近少しずつ分かるような気がしてきている。私は神は信じないが、この神の部分を人生の宝とか真実とかに置き換えると、わかる。
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学校が変わる。職場が変わる。
新しい出会いがあるわけである。
いままでの価値観では対処できないものが当然のようにそこにあるはずである。
その時、それを抱きしめられるかどうかが大事なのだと、今は思う。
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ご入学おめでとうございます。
教師、保育士になるという諸君の夢は、いま目標に変わりました。
四年間、必死に学んでその目標を実現してください。
みっちり指導します。
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