エレベーター問題2のその後
エレベーター問題2は、私の中では解決に至った。コメントを下さった方には、メールで私の考えをお知らせした。私は、私のこのような下らない問いに付き合ってくださる方がいることを、とても有難いことだと思う。
なんせ、こんなことを考えている暇があったら、通常は本業に勤しむ方がいいわけである。にもかかわらず、あれこれ考えて呉れている仲間がいるというのは、実にありがたい。
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ではあるが、学生たちにはこれが大事なのだという話をしている。そもそも学問というのは、なんてことは言わないけど、学問には遊びの要素が多く含まれている。何のために役立つのかなんてことは考えない。
あえて言えば、楽しいからである。考えるのが、答えが分かるのが、スッキリするのがである。人間はこれが許されているのである。だから、やるのである。
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もう一つ大事なことは、今回のエレベーター問題2では、私の問いを徳用に指示をしているが、実は大事なことは私の問題を解くことではなく、問いを立てることなのである。
学生たちに
『閉まりかけのエレベータの扉を開けようと思って、閉めるのボタンを押してしまったことのある諸君は?』
と確認したところ、ほとんどの学生がそうであったのだ。
にもかかわらず、この問題を考えようとしている学生諸君はいなかった。同じ問題に接していながら、考える人と、何事もなかったようにしている人がいるのである。これはなぜなのだろうか。
1)どうでもいい。
2)考えても分からない。
3)何が問題なのか意味が分からない。
4)面白くない。
5)言われたら面白いけど、自分では辿り着けない。
いろいろな諸君がいるだろう。
私もひょっとしたら、1)から5)の中にいただろうし、他の問題ではいるのだろう。しかし、私は問題に辿り着いた。つまり、問いを立てることができた。これはなぜか。
答えは一つである。考え続けたからである。
(おかしい)
という違和感を持ち続けて、考え続けたからである。
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考え続けると言うと、24時間ずっと考えているというようなことをイメージする学生がいるのだが、これは違う。そうではなくて、片思いのように考え続けるのである。気がついていたらその人のことを考えていたのように、その問題を考えるのである。
これが出来るようになると、話は進んで行く。
恐らく、脳の意識層、潜在意識層、無意識層を問題は駆け巡りながら、あれこれあれこれ考え続けることができるようになっているということなのだと思う。
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問いを立てること。これが、学問を成立させるためにはとても大事である。学習は、学んで習うのである。学問は、学んで問うのである。
学んだ結果、分からないことが生まれるのである。
そして、その問いは、誰かが答えている問いではなく、誰もが答えてなく、貴方が答える必要のある問いであることが大事である。その問いと答えをセットにして、論述するのが論文であり、学生たちは大学生活のまとめとして、卒業論文に挑むのである。
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さて、そしてここまでお読み下さった読者諸賢は、一つの問いをお持ちだろう。「(おかしい)という違和感を持ち続けて」とあるが、では、そもそもこの「違和感」はどのようにして持つことができるようになるのだろうか、ということである。
ここは私も考え続けているところなのである。
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