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2009/06/11

ちょっと待て、と思う

国語科教育法1では、今週と来週の二週間で、文章の書き方指導の指導法を講じる。どうやって文章を書くのか、その書き方をどうやって教えるかである。

多くの学生は、今までに習ってきたことがないと言う。
そして、多くの先生方も習ってきたことがないと言う。

ディベートの講座をやりはじめたのは、いまから10年以上も前になるだろうか。私は修士論文は『中等教育におけるディベートの研究』で提出しており、ディベートの入門期における指導方法についてはそれなりに、研究を進めた。

ということで、
「池田先生は、ディベートを大学時代からされていたのですか?」
と言われることがあるのだが、大学時代はディベートのデの字も知らなかった。教師になって4年目ぐらいからディベートらしきものを始めたのである。このことを言うと驚かれることが多い。

ディベートを指導したことのない先生に、
『ディベートどうですか。面白いっすよ』
と授業でやることを勧めると、
「いや、大学でやっていませんから」
「大学で習っていませんから」
という返事が返ってくることも多かった。
(ちょっとまて。私も習っていないよ)
と思っていた。

実は、作文指導もその嫌いがある。
大学で作文指導の仕方を私は習った記憶がない。
で、習っていないから出来なくても仕方がないじゃないかの世界となっている。

ちょっと待て、と思う。

『ということは何ですか、先生は卒業してから先、30年以上もある教員生活を、大学で学んできたことだけでやって行こうと思っているのですか。やれると思っているのですか?』

と突っ込みを入れたくなる。ワープロ、ディベート、メール、インターネット。私の学生時代には、ほぼなかったものである。なかったからと言って、そのままにして過ごしておしまいで良いのであろうか。

プロとして働いている人間が、「習っていないからできない」なんて言い方をして、恥ずかしくないのかなあと、若造の私は思っていた。
さらに虫の居所が悪いと、
『じゃあ、なんですか、習ったことはそんなに上手く指導されているのですか?』
と言いたくなるのも感じていた。

あーでもない、こーでもないと考え続け、現状よりも少しでも良いやり方はないかと挑戦し続けるのが、指導の現場だと思っている。

習ってないのなら、学べば良い。
知らなければ、調べれば良い。
出来ないのならば、出来るようになるようにトレーニングを積めば良い。

そういうことなのだと私は思っている。

『これから二週間で、君たちには作文の書き方の指導方法を教えます。私は大学でこれらを習ってきていません。私が考え、調べ、取り組んで辿り着いたものを君たちに教えます。

でも、これで実習や現場で大丈夫だなんて思わないように。実習や現場に行った時、びっくりするはずです。こんなに自分の力がなくて、指導が下手なのだということに気がつくはずです。

その時です。私が教えたところの、その先に、上に、君たちは新しい実践を作り出して行くのです。私が提示するものがすべてではありません。ゴールでもありません。考えて、考えて、批判をし、子どもたちの力を伸ばすために、改良すべきものです。

さすがに私が学生時代に学んだものと比べ、君たちの学び始める位置は学問的に向上した部分からとなります。でも、誤解してはならないのです。ここは新たなスタート地点であって、ゴールではありません』

そんなことを話して、授業を進めた。

昼休みに四回生の実習前の相談、3限に卒業生の相談を受け、さらに専門ゼミの学生の相談に乗る。
テキストはいじめの部分なのだが、なかなか手強い。
どの切り口で入って行ったらいいのか逡巡している。

あれこれ相談を受け、ちょっと解説をしたりヒントを言ったりしながら、過ごす。最終的には、
『発表者が、やって良かったと思えるような発表にすればいいんだよ』
と。
期待している。

その後、授業の準備などをしつつ過ごす。
明るいうちに帰ろうと思ったが、ま、それは無理であった。
だが、夕日がとても奇麗だったので、許す。

さ、これで公式の今週の授業はおしまい。
土曜日は、明日の教室だ

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