茜さす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖ふる
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万葉集というと、奈良のイメージが強い。成立したのが奈良時代ということがあるのだろうか。ところが、実際に滋賀に住んでみると、万葉集は滋賀、近江を詠んだ歌も結構ある。
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茜さす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖ふる 巻1−20 額田王
紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾(あれ)恋ひめやも 巻1−21 大海人皇子
今日は、この歌が詠まれたであろう場所に行ってきた。
万葉集では旧暦の五月五日に大津宮から出かけたとある。大津宮というのは、私の住んでいる西大津のあたりこのことである。
高速道路を使って八日市インター経由で約1時間。船岡山という場所である。古人はここまでどうやってきたのかなあなんて思いながら運転した。
該当の場所は奇麗に公園として整備され、陶板壁面にはその当時のことを想定した絵も描かれていた。とても大きいものであった。
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私は、草に寝転がり流れる雲を眺め、この歌の意味をあれこれ思たり、娘の走り回わる姿を目で追ったりしながら、
(うーん、俺はこの先どうなって行くのだろうかなあ)
と思うのであった。
大人になるってのは、物事がきちんと理解できて、判断が出来てという存在であろうと、子どもの頃は思っていた。確かにそうなのだが、そんな存在ではないこともいまは十分に分かっている。あれやこれやを抱えながら、とぼとぼと歩くのも大人なんだなあと思う。
嘗て、中野孝次先生の本を読んでいたら
「最近は、生きている人が書いている本を読まない。古人の本ばかりである。そして、その古人がとても親しく感じられるのである」
のようなことを書かれていた。
(そんなことってあるんかいな)
と思っていたが、なんだか、だんだんそうなってきている自分に、少し驚いている。
俺も、人生のなんたるかが少しずつ分かってきたのかなあ、と思う。
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