支援と指導の違いである その2
支援と指導の違いである その2
10/23に「支援と指導の違いである」の記事を書いたところ、最近のうちで最も多いコメントを頂いた。中には、ご自身のブログで紹介してくださったり、個人通信に紹介してくださった方もいらっしゃる。
私自身、いくつかの問題を考えることが出来るようになった。
1)指導と支援の関係を仲間がどのように考えているのか
2)国の教育行政のあり方
3)自分の実践ではどうだったのか
である。
1)については、コメントや通信を読みながら考えることが出来た。2)については、教師というものは、行政の考え方も視野に入れなかればならないが、基本は自分の目の前の子どもと、教師である自分を良く理解することからしか始まらないのではないかということ。
◆
そして、3)についてはNAKO-Pさんのコメントにコメントすることで気がついたことである。そこには、このように書いた。
引用開始 ーーーーーーーーーー
で、この指導と支援の仮説ですが、実践的にはディベート甲子園の準優勝の時の体験が根底にあります。そうです、「放牧指導」です。
http://homepage.mac.com/ikedaosamu/debate/01kiroku.html
授乳、牧場、放牧と三段階で行う指導の流れは、指導から支援へと生徒をリリースして行く様子と考えることが出来ると思います。まず、基礎的なことはきちんと教える。そして、それをベースにした学習者が、指導者を軽々と越えて行くような学びを行って行く。これを支援する。
教師である私は、このことを喜びとして仕事をしたいと思っています。
引用終了 ーーーーーーーーーー
と書いた。ディベートの指導を通して私は「授乳、牧場、放牧と三段階」で指導するステップを考えることが出来たが、これが私が支援と指導のマトリックスを生み出す遠因になっていたんだなあと、改めて思ったのである。
現場にいるということは、そこで何が行われているのかはあまり良く理解できないことであろう。それは佐藤学先生も仰っている。だから、私たちは第三者として自分の現場を理解するために書くのである。書いて何があったのかを第三者的に、または時間のフィルターを通して見るのである。
◆
http://homepage.mac.com/ikedaosamu/debate/01kiroku.html
の記録は、いま書けと言われても絶対に書けない。あの時でなければ書けなかった記録だ。歴史は、勝者によって作られて行く。ディベート甲子園も、優勝者のみが記録されて行くと思っていた。準優勝は消える運命にある。それはそれでいい。
だが、私は顧問としてあの時の子どもたちの側にいた。あんなにすばらしいことをやり続けた子どもたちの側にいた。何があったのかを記録することは私の仕事だと思っていた。私にしか出来ない記録だと思っていた。こんなにすばらしい生徒たちがいたんだと書かねばならないと思った。だから、大会終了後、二週間をかけて書き続けた。夏休みをつぶして書いた。
ただ、その御陰で、支援と指導の関係を私なりに理解し、仮説を立てることが出来るようになったのだと思う。
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あの時の私はそんなことは全く考えることなく、ただ記録を残してやろうと思っただけであったが、こういう風に繋がるなんて、人生はなかなか面白いなあと思うのである。
そしてまた、今の私の大学での現場のあれこれが、数年先に
(ああ、あれはここに繋がっていたのね)
と思えることを楽しみにしながら、走り続けようと思うのである。
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