« でも、何があるか分からないよ | トップページ | 門前の小僧ならぬ、隣の小娘 »

2009/10/04

読書とシャボン玉で一日を過ごす

10/3

読書とシャボン玉で一日を過ごす。

『風姿花伝』を読んでいる人が結構多いと最近感じている。私は、実はお能を少し齧ったこともあるので、若い頃にこの本を読んでいる。そして、年に一回ぐらいは読み返している。天才の書いた本だなあと思いつつ、少しずつ自分の中に入ってくると良いなあと思いながら読んでいる。

古典は未来からの手紙である。これは私の主張である。自分がこの先どのように生きて行くのかを、古典は示してくれている。人は1000年前でも、人を好きになり、嫌いになり、別れを悲しみ、出会いを喜んでいた。今の私が生きていることをそのまま1000年前からしている。だから、古典は未来からの手紙である。

佐藤学先生の『教師花伝書』を読み進めている。途中まで読んでいたのだが、本が突然行方不明になり、三ヶ月ぐらい所在不明だったのだが、今日見つかった。後半を読み進めている。

まさか佐藤学先生も読んでいるとは思わなかった『花伝書』。確か苫米地さんも読み返しているとのことであった。

授業や、学校づくりのアイディアを刺激してくれる本である。意欲を奮い立たせてくれる本である。

で、シャボン玉である。
最近娘がハマっている。近くのガーデンに出かけて行き、ふーふーと飛ばしている。今日は私がお供で出かける。

まさか中年の男が一人でシャボン玉を飛ばすこともできまい。でも、娘とならば心置きなくできる。私もやった。ありがたやありがたや。娘に遊んでもらっているようなものだ。

芝生の上に、青空の方に飛んで行くシャボン玉。気持ちのよいものだ。そして、娘はそのシャボン玉を追いかける。私はシャボン玉を追いかけている娘をレンズで追いかける。

三年前には、こんな日がくるとは思いもよらなかった。

で、中秋名月である。
ガーデンから帰る際にススキを手に入れる。道路際の目立つところは刈り取られているのだが、ちょっと奥に入ると奇麗なススキがたくさんあった。雑草と言えば雑草だが、今日は最優秀助演賞である。

きぬかつぎ、枝豆、蛸のぶつ切り、マグロ、月見団子、日本酒を用意してお月見を楽しむ。良いものだ。

Fmm

良いと言えば、マグロである。スーパーに買い出しに行ったとき、生鉢マグロのぶつ切りがまあまあ値段であった。かごに入れて歩いていたら、私のアンテナにヒットしたものがあった。

どうみても、手に入れたマグロと同じグレードのマグロの「アラ」が極めて安い値段で出ていた。躊躇うこと無く、私はこちらを手にする。アラと書いてあるが、要はマグロの「ハラミ」の部分である。筋は多いが、きちんと処理すれば、ネギトロの部分となる。これをゲット。

家で処理してみると確かに、これは生鉢マグロのトロであった。こういうの、とても嬉しい。ちょっとした専門知識があるかないかで、食生活は全然変わってくる。美味しく頂く。

で、それを見ていたのが娘。
最近、刺身を覚えたのだ。
スプーンの上にご飯を載せて、その上にお刺身をちょうだいと待っている。ニコニコしながら待っている。
載せてあげると嬉しそうに食べる。
「うまい!」
と体をねじって喜ぶ。
良かったねえ。

月見をしながら思った。耳鳴りがちょっと夏から秋に変わったと。

私の右耳は突発性難聴の後遺症で耳鳴りがしている。ま、蝉が鳴いていると思えば良い。だから、夏は左耳からも聞こえるのでバランスが良いf(^^;。だが、今日月見をしながら外にいたら、秋の虫の音が左耳に入ってきた。そしたら、右耳の蝉も秋の虫の音のように感じたのだ。

季節に体も影響されるんだねえ。

Fm 写真は、部屋に活けたススキ。満月のように見えるのは、もちろん部屋の照明です。

明日は、満月です。

« でも、何があるか分からないよ | トップページ | 門前の小僧ならぬ、隣の小娘 »

コメント

 昨日の中秋の名月は、きれいでしたね。うっとりして、夕ご飯が過ぎていましたが、お団子を作り、食べましたよ。
 私が池田さんと付き合うようになって感じたことは、池田さんは人生を楽しむすべを知っているということでしょうか。どんなに忙しくても、その中に楽しむことを入れていっているというのは、若い人は学ぶべき事でしょう。
 人生はあっというまに過ぎ去っていきますから。

野中先生に言っていただけると、遊びほうけている私も許される気がしますf(^^;。

『梁塵秘抄』ではありませんが、

遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。

を思い出します。それから、遊ぼうとしている時、私は大学時代に吹野安先生に習った『古詩十九首』の中の一つも思い出していまいます。

http://blog.hix05.com/blog/2008/05/post_615.htmlより引用開始 ーーーーーーーーーー


生年百に満たず(古詩十九首其十五)

古詩十九首から其十五「生年百に満たず」を読む。

  生年不滿百  生年 百に滿たざるに
  常懷千歲憂  常に千歲の憂ひを懷く
  晝短苦夜長  晝は短くして夜の長きに苦しむ
  何不秉燭遊  何ぞ燭を秉りて遊ばざる
  為樂當及時  樂しみを為すは當に時に及ぶべし
  何能待來茲  何ぞ能く來茲を待たん
  愚者愛惜費  愚者は費を愛惜し
  但為後世嗤  但 後世の嗤ひと為る
  仙人王子喬  仙人王子喬は
  難可與等期  與に期を等しうすべきこと難し

人の一生は百年にも満たないというのに、常に千年の憂いを抱いているのは馬鹿げたことだ、昼が短く夜が長いなどと苦言を呈していないで、蝋燭をともして夜を楽しむべきだ、楽しみを求めるのに機会を逸してはならない、来年に延ばそうなどもってのほかだ

愚者は金を惜しんで楽しむこともせず、後世の笑いものとなる、仙人の王子喬は不老長寿を得たということだが、凡人の我々にはとてもかなわぬことではないか

引用終了 ーーーーーーーーーー

もちろん、バランスなのでしょうが、生活を楽しむ、豊かにするという観点は持ち続けたいなあと思っています。ありがとうございました。

この記事へのコメントは終了しました。

« でも、何があるか分からないよ | トップページ | 門前の小僧ならぬ、隣の小娘 »

2022年3月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31