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2009/10/24

支援と指導の違いである

10/23-3

支援と指導の違いである。
これについては、私は以下のような考え方を持っている。

http://homepage.mac.com/ikedaosamu/kouseishugi.html

これは、いまから七年前(にもなるのね)に、大学院に派遣されていたときに、教育工学の授業を受けているときに思いついたものである。(HPにあげたのは2005年)

現職派遣で大学院に行くということは、現場を離れて現場を俯瞰する機会を得るということでもあるが、そこで構成主義の理論に出会ってこの表を思いつくことが出来た。

「ですから、たぶんですね〜」
と言いながら授業のときにホワイトボードに向かって歩いて行って、このマトリックスを書いて説明し始めたのをしっかりと覚えている。その時の、指導の先生も、とても興奮して
「そうそう!」
と話されていたのを覚えている。

つまり、何が言いたいかと言うと、指導も支援も両方とも大事なのだということである。

情報化社会に辿り着くまでの世界では、価値観や情報、つまり何が正しいのか、何が答えなのかが分かりやすかった。だから、教え込むということが出来たのである。しかし、情報化社会を越えて、グローバル化した超情報化社会に突入した今、正しい物だけを教え込もうとした時、正しいものが確定しにくく、提示しにくいという事態が発生していると考えられるのだ。

誤解のないように書けば、基礎基本的なことは子どもたちに教え込むことは必要である。簡単に言えば読み書きそろばんである。ただ、それだけでは教育は成立しなくなってきているのである。

子どもが自ら問いを立ててその問いを解決する。知りたいことを知り、出来るようになりたいことを出来るようになり、つまらないことを面白くするような学び、またはチームとしての協同の学びが必要になってきているのだと言うことである。

このことを学校教育の中で目指そうとしている(た?)のが、「総合的な学習の時間」であり、その時の教師の立ち位置が「支援」であると私は理解している。自らが問いを立て、その問いを解決して行くために調べてまとめて発表するという学びである。

11/3の明日の教室にお越しいただく北川達夫さんは、『対話流』(三省堂)のあとがきで次のように述べている。

引用開始 ーーーーーーーーーー

みんなで突き詰めて「なぜ?」を問う。そして、信念を持って指導する。そうすれば、国際社会がどのように変化したとしても、日本の教育が揺らぐことはなくなるのではないか。

引用終了 ーーーーーーーーーー

と。
さすがである。
しかし、なかなか厳しいとも言える。この「みんな」が誰を示しているのかである。

教師が信念を持ったとしても、その信念が教育行政とそりが合わないとき、教師はとても辛いところに置かれる。これが現状の日本の学校教育にはあるのではないだろうか。

教育行政サイドが一斉に「こっちを向け!」と示すわけである。そして、そちらに向かう。つまり、支援と言えば支援だけなのである。ところがその指示である支援が上手くいかなくても、その責任は取らないと野中先生も指摘されている。

やってらねないというのが実感であった。

ちなみに、私はこう言う性格なので
あれこれ降ってくる行政サイドからの指示は片目で見つつも、
(だから何?)
ということで、片目では子どもの実態を見ようとしていた。

(んなこと言ったって、目の前の子どもの実態と違うじゃないか)
とやっていた。
ま、わがままなやつだと思われてもいたであろうし、そのためあれこれ言われることも無かったとは言わないが、
(だから何?)
とやって行くしか無いと思っていた。

現場にいるということは、
(うーん、これ違うんじゃないか。こっちが正しいんじゃないか)
ということの連続である。ただ、なんでこれが正しいのかがなかなか言葉にできない。

だから、
(そうかなあ、ちがうんじゃないかなあ)
と思いながら、流されて行くことがある。

これを経験してきているので、私の今の仕事のベースには、その(そうかなあ、ちがうんじゃないかなあ)を言語化することにあると思っている。

あまりに話が飛びまくったので簡単にまとめる。

1)指導と支援は、教育の両輪である。どちらか片方だけということではない。

2)最新の情報や指示について無視することはいかがなものかと思うが、妄信し猛進するのもいかがなものかと思う。現場を見て、自分の頭で違和感を整理することも大事である。

3)わがままもそんなに悪いことではないf(^^;。

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コメント

いつもお世話になっています。
このところ指導と支援の違い、それぞれの定義について、あれこれ考えています。

特別支援の世界では、個別の指導計画とか、個別の教育支援計画とかがあって、言葉の扱いが非常にわかりにくいです。
どちらの内容にも指導も支援も含まれている気がします。

teachとcoachという分け方、とてもわかりやすかったです。

この指導と支援というのは、日本語ではどこかに定義づけられているものなのでしょうか?

自分としては、指導は上から教え込むこと、支援は横から手助けすることといった漠然とした解釈をしています。

早速コメントありがとうございます。

>>この指導と支援というのは、日本語ではどこかに定義づけられているものなのでしょうか?

どこかにはあると思います。といういい加減で済みません。このマトリックスは、私が勉強している段階で思いついたことなので、どこかの文献を元にマトリックスにしたものではありません。

だから、違うというご意見もあるのではないかと思っています。ただ、このマトリックスを手に入れてから私は指導と支援、または授業の構成を考えるとき、学生に考えさせるときとてもやりやすいのです。

定義というのは、スタンドアローンで成り立つものだと思いますが、このように関係の中で考えるというものもあると思っています。

ざっくりと言ってしまうと、指導者が教えようとして学習者に教えるとき、指導。学びたいと思っている者の学びを支えるのが、支援。そんなイメージでいます。

こんにちは、コディです。古い話で恐縮ですが、2007年10月16日放送のNHK「プロフェッショナル」で京都府立堀川高校の荒瀬克己校長先生が、生徒に自分で課題を見つけさせて自主研究に取り組ませる教育を実践しているのが紹介されていました。
教える(=指導?)より、生徒が伸びるのを待つ(=支援?)に重心を置いた教育だなぁと感心したのと同時に、いまビジネスの世界で取り入れられつつあるコーチングに近いなと感じたのをこのブログ記事を読んで思い出しました。
外山滋比古先生の「思考の整理学」でも、教えを吸収してすいすい飛ぶ「グライダー人間」と自力で飛び上がろうとする「飛行機人間」と言うキーワードで同様な考えが示され、外山先生も学ぶにはグライダーと飛行機の両方の資質が必要としていました。
最近の職場では、グライダーとして育てる部分を削って、いきなり飛行機を期待する傾向があり、そのプレシャーをうまくマネージメントできない状態になると「心の病気」になってしまう人が増えている気がします。池田先生が指摘するように指導と支援は両輪であるというのは社会人においても同じことなんだなぁと改めて考えてしまいました。

コディさん、池田です。

>>荒瀬克己校長先生が、生徒に自分で課題を見つけさせて自主研究に取り組ませる教育を実践しているのが紹介されていました。

これには、実は別の側面も含まれていると私は思っています。それは何かと言うと、もう大人がこれを勉強すれば良いと自信を持って言えなくなってきているということです。もっと言えば、会社で上司がこれをやればいいんだと自信を持って後輩を指導することができなくなっているという背景もあると思います。

世の中かがこれだけ流動的になると、付加価値を生み出す規準がどんどん変わって行くので、上司の成功体験が意味の無くなるものになったり、却って足かせになるということすらあるのではないかと思います。

そうだとすると、与えられたものを勉強するのではなく、という部分に別の意味が出てくると思うのです。つまり、与えられないということです。

であるならば、自ら課題を設定するというところがポイントになるのでしょう。おそらく、この課題設定と協同学習というのが、これから注目すべき点だと考えています。

tnkさん、もう一つ。

指導と支援は私のマトリックスではベクトルが逆にあることを示しています。ですが、もう一つ別の考え方もあります。それは、指導の中に支援が含まれるという定義です。

家本芳郎先生は『教師におくる指導のいろいろ』http://www.koubunken.co.jp/0100/0079.html
で、指導が含む内容を22に分類しています。

この中には支援は含まれていませんが、中には指導の中に支援を含んで考えている方もいらっしゃいます。

そんなことから、指導と支援の境目が見えにくくなることもあるのではないかと、メールを頂いてから思いました。

蛇足ですが。

示唆に富む記事を拝読させていただきました。ありがとうございました。
企業の管理職をしていると、最近「正解」を求めようとする社員が増えているように感じています。私が課題を出すのは、その人なりの企画を期待するのですが、彼らは、私が想定しているであろう「正解」を斟酌しようとするのです。仕事に正解などあろうはずもなく、当然仕事は迷走します。
これは正解を求める功利的な学習が生み出した弊害に思えてなりません。

現在学校では、おおむね学問分野の分け方に従って教科が設定されていますが、ほとんどの学校の先生は、その学問分野の専門家ではありません。専門家である必要もありません。

指導と支援を考えるとき、教師とはいったい何のプロなのか、という問題に直面するかと存じます。で、この構造は、企業の管理職においてもまったく同様です。近頃はプロのサラリーマンという意味で、「プロリーマン」という言葉が生まれています。これは、企業の人間でも、その職種のプロを目指す人間と、組織マネジメントのプロを目指す人間とに分かれてきたことを意味します。

長々と失礼しました。教育活動を考えることは、かように企業運営を考える際に大変役立つのであります。

むらちゃんさん、コメントありがとうございます。
現職の企業管理職の方に認めていただけて、良かったなあとf(^^;。

「正解を求めようとする社員が増えている」
ということですが、正解以外の解というものがあることに触れることが無かった、または正解しか求められてこなかったということでしょうか。

いや、ちょっと立ち止まればそんなはずは無いとすぐに分かると思うのですが。人を好きになるって、正解があるのでしょうか。私は無いと思うのですが、正解を求める若者には、あるのかな。だから結婚できないんじゃないかなf(^^;。

どっかにある正解を求めるのではなく、今目の前にあるものを正解にするという発想は無く、今の答えをよりよいものにするという発想も無いのかもしれませんね。

そうだとしたら、人間を育てる仕事としての教師をやるのは、非常に難しいので、私は特別活動論という授業では、正解の無い「遠足の下見の計画書づくり」「遠足の下見の報告書づくり」などを課題に出して、この「正解のない問題」への取り組みの体験をさせています。

私は大学でも実践家でありたいと考えているので、理論は授業に落として指導して行きたいと考えています。難しく、楽しいのは、やはり授業です。

そして、教育も企業も、目的は違うにせよ「経営」ということではかなり同じだなあと思っています。

池田先生、お返事ありがとうございます。
「指導の中に支援が含まれる」なるほど、こんなとらえ方もできるのですね。早速、ご紹介してもらった本を購入して、じっくり考えてみたいと思います。

池田先生お返事ありがとうございました。
確かに「正解」ということの説明ができていませんでしたね。
たとえば「○○を推進する企画書を作成しなさい」と指示します。できる社員は、細部がいい加減でもやりたいことがわかる企画書を作成します。「正解」型社員は、細部が異常に詳しい割に全体として何がやりたいのかわからない企画書を作成します。
こうした場合、「そもそも、何でこの企画を推進するんだっけ?」という問いから、自分なりにやりたいことを考えさせます。その上で、「こういうやり方もあるし、別のこうしたやり方もある」と提示します。

しかし、「正解」型は、私が用意した「例えば」の中で、自分に理解できた部分だけをつぎはぎして、やはり「全体として何がやりたいのかわからない企画書」を作成してくるのです。こうして、企画を進めるための情報共有として必要な企画書、という文書が、やがて仕事に目的になってしまいます。
世間的にはよいと言われる学校を出ていても、こういう人が会社に入ってしまう原因は、突き詰めると体験の少なさではないかと思っています。

そういう意味で、池田先生が実践なさっている「遠足の下見の計画書づくり」「遠足の下見の報告書づくり」といった活動は、まさにこうした部分に直接響くと思います。学生さんに飲み会を設定させるというのも、そうした意図とお見受けしました。

実際私も社内の研修合宿では、宴会の企画と運営を社員持ち回りで担当させます。当然企画書と報告書つきで。

池田先生も書いておられる、経営と教育の共通性に関しては私も激しく同意します。
さらに言えば、目的も同じです。企業の目的は「利益を上げること」と誤解している人が少なくありませんが、利益は手段です。目的は、「会社の永続性による社会貢献」です。これは、多くの優れた経営者が口をそろえて言っていることです。
もしご興味があれば、このあたりの本をご覧下さい。

■日本で一番大切にしたい会社
http://muratyan.cocolog-nifty.com/book/2009/01/post-1dc1.html

■経営はロマンだ!
http://muratyan.cocolog-nifty.com/book/2009/01/post-3d16.html

■人は仕事で磨かれる
http://muratyan.cocolog-nifty.com/book/2007/08/post-edf7.html

長文大変失礼しました。

ありがとうございます。

>>さらに言えば、目的も同じです。企業の目的は「利益を上げること」と誤解している人が少なくありませんが、利益は手段です。目的は、「会社の永続性による社会貢献」です。これは、多くの優れた経営者が口をそろえて言っていることです。

と言ってくださってとても嬉しく思っています。ここが一致している企業経営者が教育にもっと関心を持ってくださればなあと思っています。

私はディベートの後輩で経営コンサルタントの山中君に紹介された田坂広志氏の『企画力』を読みながら勉強して、あらためてその思いを強くしたのは、企画と計画の違いです。

私は学生たちに「遠足の下見の計画」を立てさせていますが、「企画」はさせていません。これは指導する先生の入り方の違いかもしれませが、私は計画ができるようになってから、企画を指導したいと考えています。ま、飲み会ぐらいなら企画と計画を両方とも同時にやらせたいですが、大学の140人を相手にする授業で企画までは指導は厳しいと考えています。そこで計画です。

計画は、企画に比べれば正解に近いものがでると思っています。それでも学生たちはひーひー言うわけです。で、どんな課題を出しているのか、ここに書いてしまうと課題の平等性が保てないので、メールでお送りますねf(^^;。

何でもかんでも教育と企業が一緒であるとは思っていませんが、NHK「ソクラテスの人事」などから学ぶことも多く、これ以上あちこちに関心を広げると収拾がつかなくなるなあと思いながらも、(でもちょっとだけ。面白いもん)と手を伸ばしている私がいます。

また京都に出張の時は、お立ち寄りください。
さらに深い部分であれこれ、よろしくお願いいたします。

 今回は、先生の記事から、大いに学びを得ました。
 ありがとうございました。
 丁度悩んでいた部分に解を得た感がいたします。

 あとは、この理論を、ディベート指導(特に小中学生を対象としたディベート指導)に活かすことができれば、と思うのです。

 よろしければ、私のBlogの記事をご覧下さい。
 (トラックバックもさせて頂きますm(_ _)m)

(トラックバックはできないのですね。失礼しました)

ありがとうございます。お役に立てて幸いです。

トラックバックは怪しいのが多いので、切ってあります。
http://nako-p.cocolog-nifty.com/debatable/2009/10/teach-studycoac.html
ですね、ありがとうございます。

で、この指導と支援の仮説ですが、実践的にはディベート甲子園の準優勝の時の体験が根底にあります。そうです、「放牧指導」です。
http://homepage.mac.com/ikedaosamu/debate/01kiroku.html

授乳、牧場、放牧と三段階で行う指導の流れは、指導から支援へと生徒をリリースして行く様子と考えることが出来ると思います。まず、基礎的なことはきちんと教える。そして、それをベースにした学習者が指導者を軽々と越えて行くような学びを行って行く。これを支援する。

教師である私は、このことを喜びとして仕事をしたいと思っています。

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