ツイッターを始めて、少し分かったことがある
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ツイッターを始めて、少し分かったことがある。
私は今までにツイートを随分してきているということである。
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どこでしているかと言えば、多くは本にしているのである。本を読みながら、そこに呟いている(ツイートしている)のである。私の本は、あちこちに書き込みがあり、まさに「テキストの書かれているメモ帳」が私の本となっている。
そのツイートは、自分の思いつきであるからして本来、自分しか見ない。時々本を借りていく学生たちが、私がかつて行った書き込みを部分を見ることもあるかもしれないが、ま、それは例外。私だけが分かれば良い。
そして、時々、または偶然にその昔のツイートを見て、あれこれ思うのである。一度記憶の彼方に消え去った呟き。無意識層に消えていった呟きを再発見して、新たなアイディアを見いだしたりするのである。
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ところが、ネットのツイッターは、この無意識の場所を電脳空間に求めることになると感じている。自分のツイートは、ツイートした瞬間にネット上に記録される。ツイートした本人は、その内容をほとんど忘れる。つまり、無意識層に放り投げてしまったのである。
しかし、それがネットの誰かのところに届くとき、そこが無意識層として働きだすのではないかと感じている。
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本来、自分の呟きを自分で掘り起こして楽しんでいたことが、他人の呟きで楽しむことになるという構造なのかもしれない。
ただ、このとき、丸裸で電脳空間に投げ出された言葉や思いは、どんな風に漂っているのかなあと思う。そんなことを思うと、簡単に電脳空間にはツイートできないなあと、いまは思うのだ。
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