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2009/11/11

青山新吾先生から新著を頂いた

11/10

実習生の実習後の指導をしていて、思うことがある。一期生の彼らが作ってきた研究授業の指導案のその後の活用をどうしようかということである。

先輩が学んできたことから、後輩が学ぶ。これはとても大事。本学のGPも先輩が後輩を指導することを柱にしている。だが、教育は教えてもらうことと、学ぶことの二本柱で成り立っている。教えてもらうことを充実するということは、学ぶということを充実させることとセットになっていなければならないはずである。

たとえば、先輩の書いた指導案を貰う。確かに勉強になる。そのまま真似ることも大事である。教育の世界では授業の真似をする「追試」という方法もあるし、書道では「摸書」という写し書きの学習法方法もある。

だが、なのである。
教わらなければ出来ないと言うような学生には育ってほしくないし、先生にもなってほしくはない。

青山新吾先生から新著を頂いた。
『吃音のある子どもたちへの指導 子どもに届けるメッセージ』(青山新吾著 明治図書)
である。

青山新吾先生は、現在岡山県教育委員会の指導主事。専門は特別支援教育である。となれば、学生時代からこの分野を研究していたのではと思うのが当たり前であろう。しかし、違う。新卒のときに、たまたま「ことばの教室」の先生になった。そこから、修行を始めるのである。

青山さんはそこから逃げ出すことなく、修行を進めるのである。本を買い求め研究会に参加し、プロとしての力量をつけていくのである。課題から逃げずに。課題を運命だと思って背負おうとして努力を始めない限りは、前には進めない。言うのは簡単だけど、これなかなか大変なことなんだなあ。でも、これは真実だろう。

私も教員になってからディベートのことを学び、指導者としての力量をつけていった。学生時代には、ディベートのデの字も知らなかったのである。この辺りのことがこの本の最初に書いてある。親しみを持って懐かしく読み進めることが出来た。

教師のライフヒストリーとして読んでも非常に勉強になる。

ここから、二つのことを述べたい。

その1 仕事に関する誤解

仕事に関して学生が大きな誤解をしているのは「好きなことを仕事で出来る」と思っていることである。仕事は振ってくるものであり、むしろ、したくないこと、嫌なことがばかりがやってくるものである。好きなことを好きなようにやって給料をもらえるわけがない。当たり前のことなのだが、「好きなことが出来ない、自分に向いている仕事がない」ということで辞めることになる若者がいる。全く逆である。

繰り返す。仕事は、やりたいことができるものではない。やれと言われたものをやるものである。やれと言われたものをやる中で、同じ条件にも関わらずいい結果を出したものが、次のときに、自分が出来る裁量を貰えるものである。

それは、具体的な裁量権であったり、仕事仲間の同意であったりする。最初から、実績や実力がない者に責任のある仕事が与えられることはない。これがどうしても嫌というのであれば、自分で仕事を始めるしかない。それはそれで大事なことであるし、やってみればよい。

その2 独学

このところ感じることに、独学というものがある。私がこの独学を意識したのは、中野孝次先生の本を読むようになってからのことである。大学時代のことである。

私はへそ曲がりなので、人に習うのが苦手である。なんというか、教え方が気に食わないとやらないのである。私にあった教え方をせよというのではない。そんなにわがままではない。じゃあなにかと言えば、授業の構成や展開に無理があるものは、
(いや、そりゃあそうじゃなくて、こっちからだろ)
のように中学生の頃から思っていたのである。

だから、イライラするよりは自分でやった方がいいので、独学でやることがとても多かった。このことから独学というのは、教わるのが下手な人がやる方法なのかなと思っていた。しかし、独学で旧制高校に進学された中野先生のことを知るようになり、独学という言葉に違う意味を持つことが出来るようになった。

もちろん、中野先生と私を同列に考えるものではない。そうではなくて、一人で学ぶって結構いいんじゃない?と思うようになったのである。

教わらなければ出来ないと開き直っているのか、馬鹿自慢をしているのか、そんな人を見る度に、じゃあ自分で勉強すれば良いのにと私は思う。必要なんだったら自分でやれば良いのにと思う。

で、研究授業の指導案である。実習をくぐり抜けてきた学生同士がそれを元にしてあれこれ事後検討会を開くのは勉強になると思う。しかし、見本として手渡されたものだけを頼りにして、その枠の中だけで勉強しようとする者にとっては、確かに意味はあるのだが、こじんまりとした成長しか促さないのではないかと言う思いがあるのである。

私は模擬授業では全てを録画させておく。そして、DVDにして提出させている。だが、後輩には一度も見せていない。見ることのメリットとデメリットを考えると、デメリットの方が大きいのではないかなと思うからである。

習っていないから出来ない?
いや、そんなことはない。

今までに習ったものを総動員して、さらにグループの仲間たちと議論を重ねていくことで、少しずつだが自分と自分たちの足で歩いていくことが出来るようになる。私たち教師の仕事は、目の前に子どもがいるとき習っていないからで来ませんとは言えない。今手持ちの力量でなんとか凌ぎ、さらに自分の力量を高めることで大きな課題に立ち向かっていくのである。

もちろん、自分の経験を元に、それを根拠に私の考えを押し付けようというつもりではない。

だが、

自分の頭で考えよ。人生はそのためにある。
そしてその人生は苦しいけど、充実しているものとなるはずだ。

と言いたくなる。私の仲間たちは、そうやって人生を切り開いて生きている人たちばかりだ。だから、良く分かる。

教えることをすればするほど、学ぶことも求める。

いつも以上に、説教臭い文章かなf(^^;。

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コメント

池田さん、いつもありがとうございます。
拙著のご紹介、感激です。
「吃音」から特別支援教育を考える。
自分を棚上げせず、事象を捉える。それを
考えていると、結果的に「ライフヒストリー」
的な思考、言語化になったように感じます。

これまでの著書も、第1章は、同じような
書きぶりにしているのです。

そのあたりを読み解いていただき、二重の
感激です。

振り返るにはまだ若すぎると、私も自分で思うのですが、若い教師がこれだけ増えてきている今、少し早めに自分の新卒時代を振り返ることに、意味があるのではないかと思うようになってきました。
青山さんの御著書は、そういう観点からも学生たちに勧めたいと思いました。

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