「そういうものである」
11/7-3
「そういうものである」
ということで学校は結構動いてきた。
一斉授業、席替え、給食指導、係活動。
これらは、そういうものであるという暗黙の了解でなされてきたものである。少なくとも、今の二十代の人が小中学校にいた頃は、ほとんどの学校でそうだったであろう。
つまり、なんでこれがあるのか、この定義はなんなのか、何の意味が在るのかなんてことは考えること無く、「だってそういうものでしょ」ということでこれを受け入れて、多くの人は学校生活を送ってきたはずである。
ところが、ここに消費社会に説明責任の時代がやってきた。「だってそういうものでしょ」ということで許されないことになってしまった。
実に面倒くさい。
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実際問題いちいち、これの存在意義は何であろうかなんて考えていたら仕事にならない。ときどき思い出しては考えるのはまあ、ありだし、必要だと思うが、一回一回は大変だ。
「だってそういうもんですから」で済むことによって、考える力を他のクリエイティブなところや、緊急事態に使うことが出来るということが大事なのである。
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「そういうものである」
と
「そもそもこれはどういうことであろうか」
との間には相当の隔たりがある。
この20年間は、「そういうものである」から「そもそもこれはどういうことであろうか」への変遷であったとも言える。時代の流れの中にいつつ、時代に応じた「そもそもこれはどういうことであろうか」を考える。つまり、不易と流行を考えつつ仕事をするということであったのだろう。
ここを乗り越えていくことが実践的には大事だったのだなあと今は思う。ただ、残念ながら未だに「そういうものである」から抜け出さない、抜け出せないままで子どもたちの前に立つ先生方もいる。
教師という仕事がずっと勉強を続けることが必要であることは論をまたないと思う。社会が変化し、子どもが変化する中で、教師が20年前のままで良いと、どうして思えるのであろうか。人間の本質は変わらないということも言えるが、環境で変わるとも言えるのだが。
単純なことなんだけどなあ。
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ただ、もう一方でもういちど「そういうものである」ということを築くことも大事だと考えている。学校というものは、そういうものであるという合意の上に成り立っていないと、普通教育ができなくなる。公教育と言っても良い。
学校という場所は、子どもを大人に育てる場所である。
とか、何か共通したものの上に成り立てる必要がある。そんなことを考えている。
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