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2009/12/14

集団で作るシーン

12/13

今年の明日の教室は、昨日の書写/篆刻指導のいろはで終わった。今回は私が講師であった。いつもとは違い、今回は実習がメインであった。

もちろん、書写/篆刻指導の際に注意することもお話をしながらの講座ではあったが、作業と説明のバランスをとるのは、相手が子どもであっても大人であっても同じぐらい難しいものだと改めて思う。

嘗て、中学校で国語を教えていたとき、私は割と真剣に書写を教えていた。真剣に学ぶ中学生は、きちんと吸収する。一生の宝をプレゼントしてあげたいと思って、字を教えていた。どうせやるならと、中国や日本の書の古典をテキストに使ったりもしていた。

ところが、中学校の中には書写をやらない学校も多くあり、
「なんで、池田先生は文法をやらないで、書写をやるのですか?」
と、クレーム?を言う保護者がいたりもしたこともあった。書写の時間に書写をやらないで、その時間に余分に文法や読解をする先生がいたのだ。私が正しいのにf(^^;。

私が書写の授業が好きなのは、子どもたちにはっきりとした力をつけてあげられるからということもあるが、もう一つ理由がある。それは、あの集団でシーンと言う空間と言うか、時間と言うか、これが好きなのである。

書写では、摸書を中心にして指導をしていたのだが、これはかなりの集中力を必要とする。摸書をすると、本当にシーンとするのである。

摸書というのは、簡単に言えば写し書きである。日本の書道教育では、この写し書きである摸書を嫌う。きちんとした理由はよく分からないが、個性とか独創性とかを重視するとこの写し書きはその反対側にあるので、やらないのであろう。大きく元気良く書くというのが、好まれている。

だが、私はまずはきちんとした字を書けるようにすることこそが、義務教育の責任だと考えていた。つまり、美しい字よりも読みやすい字である。だから摸書であった。中国でも、初学者は徹底的に摸書をするということを聞いている。

で、シーンである。

いつも騒いでいる五月蝿い30人から40人の中学生が、この摸書をすると、シーンとするのである。咳なんぞしようものなら、クラスの中で睨まれてしまうほどの静かな集中が生まれるのである。これが非常にいいのだ。

学校は集団を学び、集団で学ぶ場所である。合唱、演劇、運動会などの多くの行事は集団で行い、元気にやるものである。しかし、書写はこの逆である。もともと書写などは一人でできるものであり、一人でやるものである。これをクラスで一斉にやるのである。

実際に体験した子どもたちは異口同音に言う。
「先生。書写のあのシーンとした時間が好きでした」
と。集団で作るシーン。これを好むのである。

今回の明日の教室の書写、篆刻のいろはでも、このシーンを体験していただくことができた。良かった良かった。

懇親会は疲れが出ていたのであろう。席を動けなかった。新しくいらっしゃった方にお話を聞こうと思っていながら、壁に背中を預けたまま、持ち込んだ「獺祭」を味わいつつ、ボーッとしてしまった。

(ああ、いいなあ)
と思いながらボーッとしてしまった。

来年も楽しくなるなあと思いながら、「獺祭」に包まれていくのでありました。

ちなみに、2010年 研究会の予定は、

1/30(土) 土作彰氏 



2/13(土) 岡山洋一氏 ファシリテーション入門 



3/13(土) 石川晋氏

4/24(土) 野中信行氏 提案「味噌汁・ご飯」の授業

であります。お待ちしております。

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