支援と指導の違いである
10/23-3
支援と指導の違いである。
これについては、私は以下のような考え方を持っている。
http://homepage.mac.com/ikedaosamu/kouseishugi.html
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これは、いまから七年前(にもなるのね)に、大学院に派遣されていたときに、教育工学の授業を受けているときに思いついたものである。(HPにあげたのは2005年)
現職派遣で大学院に行くということは、現場を離れて現場を俯瞰する機会を得るということでもあるが、そこで構成主義の理論に出会ってこの表を思いつくことが出来た。
「ですから、たぶんですね〜」
と言いながら授業のときにホワイトボードに向かって歩いて行って、このマトリックスを書いて説明し始めたのをしっかりと覚えている。その時の、指導の先生も、とても興奮して
「そうそう!」
と話されていたのを覚えている。
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つまり、何が言いたいかと言うと、指導も支援も両方とも大事なのだということである。
情報化社会に辿り着くまでの世界では、価値観や情報、つまり何が正しいのか、何が答えなのかが分かりやすかった。だから、教え込むということが出来たのである。しかし、情報化社会を越えて、グローバル化した超情報化社会に突入した今、正しい物だけを教え込もうとした時、正しいものが確定しにくく、提示しにくいという事態が発生していると考えられるのだ。
誤解のないように書けば、基礎基本的なことは子どもたちに教え込むことは必要である。簡単に言えば読み書きそろばんである。ただ、それだけでは教育は成立しなくなってきているのである。
子どもが自ら問いを立ててその問いを解決する。知りたいことを知り、出来るようになりたいことを出来るようになり、つまらないことを面白くするような学び、またはチームとしての協同の学びが必要になってきているのだと言うことである。
このことを学校教育の中で目指そうとしている(た?)のが、「総合的な学習の時間」であり、その時の教師の立ち位置が「支援」であると私は理解している。自らが問いを立て、その問いを解決して行くために調べてまとめて発表するという学びである。
◆
11/3の明日の教室にお越しいただく北川達夫さんは、『対話流』(三省堂)のあとがきで次のように述べている。
引用開始 ーーーーーーーーーー
みんなで突き詰めて「なぜ?」を問う。そして、信念を持って指導する。そうすれば、国際社会がどのように変化したとしても、日本の教育が揺らぐことはなくなるのではないか。
引用終了 ーーーーーーーーーー
と。
さすがである。
しかし、なかなか厳しいとも言える。この「みんな」が誰を示しているのかである。
教師が信念を持ったとしても、その信念が教育行政とそりが合わないとき、教師はとても辛いところに置かれる。これが現状の日本の学校教育にはあるのではないだろうか。
教育行政サイドが一斉に「こっちを向け!」と示すわけである。そして、そちらに向かう。つまり、支援と言えば支援だけなのである。ところがその指示である支援が上手くいかなくても、その責任は取らないと野中先生も指摘されている。
やってらねないというのが実感であった。
◆
ちなみに、私はこう言う性格なので
あれこれ降ってくる行政サイドからの指示は片目で見つつも、
(だから何?)
ということで、片目では子どもの実態を見ようとしていた。
(んなこと言ったって、目の前の子どもの実態と違うじゃないか)
とやっていた。
ま、わがままなやつだと思われてもいたであろうし、そのためあれこれ言われることも無かったとは言わないが、
(だから何?)
とやって行くしか無いと思っていた。
現場にいるということは、
(うーん、これ違うんじゃないか。こっちが正しいんじゃないか)
ということの連続である。ただ、なんでこれが正しいのかがなかなか言葉にできない。
だから、
(そうかなあ、ちがうんじゃないかなあ)
と思いながら、流されて行くことがある。
これを経験してきているので、私の今の仕事のベースには、その(そうかなあ、ちがうんじゃないかなあ)を言語化することにあると思っている。
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あまりに話が飛びまくったので簡単にまとめる。
1)指導と支援は、教育の両輪である。どちらか片方だけということではない。
2)最新の情報や指示について無視することはいかがなものかと思うが、妄信し猛進するのもいかがなものかと思う。現場を見て、自分の頭で違和感を整理することも大事である。
3)わがままもそんなに悪いことではないf(^^;。





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