生活綴り方とライティングワークショップとの関係を思う
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本日は、児童教育学科の二回生キャンプであった。GPの企画の一つである。
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二回生キャンプの最初の全体講演は、野名龍二先生である。綴り方教育の重鎮である。本学の二回生に、他大学での授業の話等もされていた。その時の学生の感想の中に、
「野名先生の授業は、子どもの作文を読むだけだった」
大阪教育大学の学生の感想だそうだ。
この学生は野名先生の授業を非難しているのだろう。だけど、違うのだなあ。
作品の鑑賞の仕方にはいろいろとある。論理的文章などは、批判的に読む、分析的に読むというのが、大切にされている。だが、文学作品は、ときに、丸ごと読むというのが効果的な場合がある。
一つの作品を読み、ただ一言
「いいでしょ」
とか
「いいなあ」
だけ言ってオシマイにするのである。
何がどのようにいいのかということを説明すること無く、いいねえでオシマイにする。何がどう良いのかは、読者、つまりは生徒や学生に丸投げしてしまうという読み方である。
これはなかなか出来る授業ではない。その凄さが、学生さんには分からないのだろうなあと思った。
私も中学生に、一回の国語の授業で一つ、詩、短歌、俳句を教えてから教科書に入る実践をしていた。で、良い作品のときには
『良いでしょ』
とだけ、言って終わりにすることもあったが、これはなかなかできるものではなかった。これでも難しかった。しかし、野名先生は更に難しいことをされているのである。
だいたいからして、読むだけというが、読んでいるのは子どもの詩である。子どもに詩を書かせる指導をしている。そして、作品にまとめている。ここの凄さが分からない。さらに、読むということは一番シンプルな解釈であり、その解釈に基づいて読んでいるのである。ここも分かっていない。
恐らく、野名先生が、教室で子どもの前に立って、教科書を読むとき、そこはシンプルな解釈が満載の読み方だったに違いない。今日、野名先生の読み上げている様子から、そのことはよーく分かった。
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「良い作文は、自分がしたことを書かない。見た事実を書く。言葉に力が入ります」
「感受性は人の喜びや悲しみ等を自分のものにする能力。能力だから磨けば光る」
「なんでも真剣にやらなければ面白みは生まれない」
「学習指導要領に、作文という文言を復活させたい」
他にも野名先生からは、すばらしい言葉をたくさん頂いた。
本学の新三回生に届くと良いなあと思いながら、聞いていた。
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また、
「文章についての意識を高めるようにはしたが、何を書けとは言わなかった」
「書いてきた作文は、朝の学活で読み上げていた」
など、綴り方の指導のことを話されていたが、
(ああ、これはライティングワークショップの作家の時間だなあ。先生は書きたいことを書かせていて、カンファレンスをしている。そして、作家の椅子の代わりに、先生が読み上げているんだなあ。綴り方運動と繋がっているんだなあ)
とも思った。生活綴り方は、政治的な思想に基づいた教育のようなイメージがあるのだが、今日の野名先生のお話を伺っていると、そんな感じはほとんどなく、もう少し勉強してみようかなあと思う私でもあった。
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本当は、夜泊まって学生たちと、教育についてあれこれ話をしたかったのではあるが、翌日の検査のことを考えるとそれも無理だったので、一足先に帰った私でした。
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