三月は、三回結婚式に出た
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三月は、三回結婚式に出た。
モチロン、お招きいただいた「娘」たちを祝う気持は、その通りであるが、思うのは、わが娘のことである。
◆
昨日の結婚式は、私が大学に移ったときに四回生だった学生である。大学の先生としての振る舞い方を「しつけて」くれた学生の一人である。
一人娘であるのは知っていた。卒業式のときにご両親がやってきて、ご挨拶を頂いた。そのときにもとても大切にしているのが、分かったが、今回も本当に感じた。
人生は不条理である。
矛盾に満ちている。
内田樹先生は、
「子どもが生まれたとき、このこのためには死ねると思い、同時にこの子のためには死ねないと思った。これほど矛盾したことがあるかと思った」
と述べている。
昨日の結婚式でも、父親は
「これほど幸せな瞬間は無い。そして、これほど悲しい瞬間もない」
と思ったことであろう。
いくつもの思い出の写真が映像で流されるのを見ながら、
(うわあ、これから20数年で、こんなことが私にもやってくるのかあ)
とあれこれ思う。そして、式場を見れば、成長した娘(卒業生)。
この三月は、これを三回も味わった。
嬉しい思いと、切ない思いと両方とも同時に味わった。
ああ、生きるってのはいいなあと。
私の娘との時間を大事にしたいなあと思ったのだった。
◆
三回結婚式に出て、三人に共通して思ったことがある。
三人の娘のご両親、または本人は口を揃えて
「娘は、いい先生に恵まれました」
と言う。
私は違うなあと思っていた。
思っていたが、そういう席で反論をするのもなんだかなあと思ったので、
『ええ、まあ、ありがとうございます』
と言っていたのだが、違うと思っている。
『いい先生に恵まれたのではなく、お嬢さんがいい学生だったのです』
ということである。
どんな先生だって万能ではない。向き不向きや合う合わないというのが人との付き合いである。それは先生に対しても同じだ。まして、私のように癖の強い先生である。その先生をいい先生というのは、それは明らかに、娘さんの人間が出来ているからである。
『いい先生も、いい仲間もいない。そう思える、あなたがいい人。あなたのことを、大切にしたいと思う人がいる。だから、あなたがいい人』
そんなことを思ったのであった。
◆
また、改めて思った、
(怖い先生ではなく、厳しい先生になろう)
(もっと厳しい先生になろう)
と。
卒業生から、言われたお礼の言葉を翻訳すると、そう言う答えが出てくる。
(このぐらいいいかあ)
と思ったことを許さないことが、学生諸君のためになることは、分かっている。分かっているが、人間の出来ていない私は、
(ま、いっか)
と許してしまいたくなるが、これをしてはいけないのだなあと改めて思ったのだ。適当に許してしまって、学生たちのためになることはない。
恩師も厳しくして下さったよなあ。あの時は、
(こんちくしょう)
としか思わなかったけどf(^^;。
ああ、先生すみません。
せめての罪滅ぼしで、先生の意志を継がせていただきます。
◆
この一ヶ月、いろいろとあったけど、なんとか、生きているよ。
幸せな中に、生きているよ。
もう少し頑張るよ。
帰りの電車の中で、
そんなことをふと思った。
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コメント
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保護者としての立場で申しますと、先生がよい先生だったかどうかは、あまり重要ではありませんし、だいいち分かりません。
重要なことは、子ども自身が、よい先生に恵まれたと「思っていること」なのであります。卒業や結婚など、人生の区切りに際して
「ああ、よい先生に恵まれたなあ」
「よい親に恵まれたなあ」
「よい友人に恵まれたなあ」
と思える幸せ。それは本人以上に親の幸せであります。
この春、私の娘も中学校を卒業しました。
投稿: むらちゃん | 2010/03/30 10:08
ご卒業おめでとうございます。もうすぐご入学ですね。
いい先生だったなあと思ってもらえることは、教師の喜びの中でも大きいものだと思っていますが、最近の私は、卒業と同時に思われるのではなく、10年後ぐらいにそう思ってもらえるような教育が大事なんじゃないかなあと思っています。ま、卒業のときに無視されるのも、なかなか寂しいとは思いますがf(^^;。
投稿: 池田修 | 2010/04/01 19:20