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2010/04/20

ちょうど今日の京滋の雨のように

4/20

雨である。今日からしばらく京滋は雨である。
紅枝垂桜、八重桜と咲き誇っているところに雨というのは、少しもったいない気もするが、今を盛りのタケノコや次のツツジやさつき、さらにクチナシと続く花のためには、大事な雨である。

いまさらなんでと思われるかもしれないが、大村はま先生の本を読んでいる。私は中学校の実践の場にいるときには、一冊も読まなかった。これはへそ曲がりの私のやっていたことなので他の人の参考にはならないが、私は読まなかった。

私が興味があったのは、私の目の前の子どもたちと私の実践である。他の人の実践はさほど興味がわかなかった。特に国語の授業に関しては、子どもと指導者が違うんだから、他の人の実践を持ってきてもダメだろうという思いが強くあった。

それに、なんというか、他の人が考えて出した答えというのは、その人にとってはジャストフィットであろうが、それが私と私の生徒たちにジャストフィットするとは考えられなかったし、だらしない私は、改良することもなくそのまま安直に使っていたであろうと思うので、国語の実践家の文章は読まなかった。

自分で考えたかった。他の国語の実践家の実践を参考にするってのは、私にはあまり向いていないと思っていた。だから、読まなかった。

もちろん、国語ではないものや、新しい指導方法を開発しなければならなかったディベートについてなどについては、ずいぶん読んだけど。そして、そこからインスパイアされるものの方が、私にはあっていると思っていた。

で、なんで今読んでいるのかといえば、そりゃあ、さすがに教員養成大学で国語を担当していて、大村先生の本を読んでいませんでは通用しないからである。学生たちに学びの機会を与えにくくなるからである。国語教育に関してエンサイクロペディアとまではいかなくても、その目次項目ぐらいは網羅せねばならないからねえと思うのである。

いま大村先生の本を読んでみて、思うのは、やっぱり読まなくてよかったというのと、読んでいてもよかったかなという思いが半分ずつということである。

読まなくてよかったという理由は、私の予想していた通り。ま、大村先生のと同じというのはおこがましいが、同じような発想をされているところがあって、これを現場にいたときに読んでしまったら、生徒と自分で考えることなくそのままやろうとしていただろうなということである。

遠回り、寄り道の多い私の人生であるが、振り返ってみればその部分が面白い。大事だったりする。その部分を通らないで結論にたどり着いてしまうのは、実はつまらない。ところがそうなる可能性があるようにも感じたのだ。

読んだ方がよかったというのは、ま、その裏返しかな。私が考えていた突拍子もないと思われることを大村先生もおっしゃっている。もし、それを知っていれば、

『いや、私がいっているんじゃないんです。大村先生がいっているんです』

と出典を明らかにして実践を守ることができたのではないかと思うのである。ではあるが、こうして誰かの言葉で守られる実践というのも、私は、あんまりよしとしなかったので、使わなかったかも。いや、人間が弱いから使っていたかな。なんてことを思ったりしながら読んでいるのである。

そして、いまは大村先生の言葉を受け取り、学生たちにどう伝えようかと考えているのである。

良いものを受け取って、次の世代へとつないでいく。
良くないと思われるものも、実は他の何かにとっては大事なものであることもある。であるならば、まずは受け取ることだろう。

ちょうど今日の京滋の雨のように。

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