もう一度言語化しなければならないのである
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公園の滑り台が大好きな娘。お尻で滑るだけでなく、ウルトラマンのように前から滑り降りて、一番下に来たら両手でブレーキをかけることもできる。おいおい、誰に習ったんだそんなの?と思う。
ブランコに娘が乗る。そんな娘だから立って乗ることもできる。ところが、
「おとーさん、やって!」
である。
まだ、漕ぐことができない。
◆
学生たちにこんなことを質問する。
『アー諸君。君達は、靴のひもを結べるかね?』
もちろん、学生たちはハイ?と答える。怪訝な顔をして、うなずくわけである。
そこで、
『では、君達。その結び方を口だけで説明してみたまえ』
こうなるとこれは結構難しいのである。
嘗て、私たちは親から靴のひもの結び方を学んできた。口で言われ、目の前で見せられ、手取り足取りで靴のひもの結び方を教えられ、それが出来るようになってきたのである。
いま、私たちは靴のひもが結べる。それは一回一回頭の中でやり方を言語化して行っているわけではない。手が勝手に動くのである。だから、言語化して説明するとなると結構難しい。
◆
動きというのは、
1)言語で説明される、見本で示される、一緒にやる
2)できるようになる
3)1)が消える。だけど出来る。
という流れで習得されることが多い。車の運転等を思い出してもそうである。マニュアル車を運転している人が、クラッチを意識して運転しているとは思いにくい。シフトレバーの位置を確認しながら運転しているとも思えない。
授業を進める教師も、この構造を理解しなければならない。もう既に、言語を必要とせずに自分で出来る教師は、これから言語、見本、一緒にやるということを通して、体に覚えさせることをする子どもたちを相手にしているのである。
だから、もう一度言語化しなければならないのである。これが難しい。わかると、できると、教えられるは、違うのである。
◆
『えっとね。立ち漕ぎの時は、こうやって前に行くときに膝を曲げるんだよ』
ブランコの漕ぎ方を、言語化し直すことになろうとは思わなかった私である。
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