漆原教授を私は大学教員の一つの理想型と思っている
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気がつけばもう五月も終わりなんだなあ。
2010年度の授業も波に乗ってきたなと感じている。この波に乗るというのが大事だ。
もちろん、慣れになってはいかん。習熟していくことが大事なのだが、波に乗ると生活のリズムが作れる。ここが大事。
ま、そうはいいながら二週間も風邪で体調の方はおかしくなっているが。咳はずいぶん収まったが、まだ出る。今回はずいぶんしつこい。
この風邪は研究者になると、良い研究者になるだろう。
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今日は、三回生ゼミと国語科教育法1の授業。
三回生ゼミは、講読の続き。今日はいじめについて。
運動会などで子どもたちが好きな、「団結」ということが、いじめを生み出すことについて言及する。
今日のレポーターは、なかなか良い読みをしていたが、それを下にゼミの中に議論を作り出すようなデリバリーは出来ていなかった。それが次回以降の課題だな。
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国語科教育法1では、いつもと違う授業をしてみた。先週メモについてあれこれ講義をしたのだが、それを受けて、今回の漢字指導に関わる講義の一部分を、ナンバリングを施さずに行うということをしてみたのである。
私の講義では殆ど板書はしない。するときは、難解字、同音異義語、固有名詞などがほとんどである。あとは、どんどん話し、どんどん学生にメモをさせる。
それでもメモができるように、しやすいようにナンバリングとラベリングは丁寧に施して行っている。だから、かなりメモはしやすいはずである。
しかし、授業というものはそう簡単にいかなない。つまり、分かりやすい、やりやすいということは学生たちに分かるための努力、するための工夫の機会を奪い取ってしまっていることにもなるのである。
世の中で語られる話は、ナンバリングやラベリングをされてはなされることなど限られている。その生の話から自分で構成をしつつメモをして理解をし、質問も考えるのである。理解しやすく構成された話ほど、この自分で努力し工夫する機会を奪ってしまっていることになる。
だから、あえてナンバリングをせず、ラベリングも意識するような話し方をせずに行うということをした。
学生たちは、ナンバリングをしない私の話が、急に難しく分かりにくくなることを実感していた。
授業は、漢字の指導方法について。
従来の漢字指導は、「書け!」という命令で終わらせられてきた。これではダメだというのが、私の主張。
これは『教師になるということ』(ひまわり社)に実践として記述してある。
今日は、本には書けなかった部分も含めて説明する。
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で、研究室の改造。
まだボーットしているので、依頼されている原稿を書けない状態にある。だから、気分転換に改造。
ま、改造と言っても付け足しただけだが、これは私にとっては大きな改造だ。研究室の心地よさが数段違ってくる。
漫画『動物のお医者さん』の中に出てくる、漆原教授を私は大学教員の一つの理想型と思っているところがあるが、少し彼に近づけたかと思う。
研究室におこしの際は、是非見ていただきたい。
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翌日の準備をして、西の空が夕焼けに染まるのを見て帰宅。今日も早い一日だった。