« 戻ってきました | トップページ | 鬼の霍乱である »

2010/05/21

では、なぜ、女子児童は隠そうとしたのであろうか?

5/19

うーん、知的興奮に体がついていかなかったのであろうか、東京から帰ってきた私は風邪をこじらしてしまっている。熱が出ているのが分かる。計るとめげてしまうので、計っていないが熱だ。咳も出る。

昨日は、仕事を途中で投げ出して研究室を後にした。冷蔵庫にあるあれこれをだだだっと食べて、水分をたっぷりととって18:00には寝た。そして、今朝起きたのは6:00。久しぶりの12時間睡眠。少し良くなったと思ったので、今日の授業の資料を作っていたのだが、これでまた発熱f(^^;。

でけるぎりぎりまでもう一度寝直す。

だが、大学についてしまえばそれはそれ。一気に進む。

研究入門ゼミでは、月曜日に見せていただいた聖学院小学校の池内先生のクラスのことを話す。池内先生とはもう15年ものおつきあい。ディベートを普及し始めた頃、池田池内ということで、イケイケコンビという名前をいただいていた仲である。

その池内先生がライティングワークショップの授業を小学校一年生でやっているところを見せてくださるというので伺う。授業は、玄人好みの細かいところに配慮の届いた、味のある授業だった。

で、その後の検討会で、一人の児童のことが話題になった。自分の書いている作文を周りから見られないように筆箱で覆いを作って書いている女子児童のことである。

「見ないで!」
というのである。これについて検討会であれこれ意見を交換した。

今日の研究入門ゼミでは、このことを取り上げた。

『さて、諸君。あなたのクラスで同じことが起きたとしよう。こういうことだ。「先生、となりの池田君が私の作文を見てまねしようとして困っているんです。怒って下さい」と言ってきたとする。そのとき、君はなんて指導するのかである』

ペアになり、先生と児童役になってやり取りを経験してみた。池田君にみないようにと、指導する先生役の学生が多いかと思いきや、
「いいものだから見たいんだね。見せてあげてね」
という言い方をする学生が多いことに、驚き喜ぶ。そういうものの見方ができるのはとても大事である。

そこで、さらに質問する。

『では、なぜ、女子児童は隠そうとしたのであろうか?』

というものである。学生たちの答えは、「自分で考えたものを横取りされたくない」「独り占めにしたい」というようなものであった。

『うむ、そうだろうなあ。自分のものにしておきたいよねえ
。では、さらに問題だ。いいものだから見せてあげてね、といわれた女子児童が、気持ちよく「はい、どうぞ」と見せてあげるようにするには、何が必要なのであろうか?』

『折角自分で考えたアイディアを、簡単に人にハイどうぞと渡すことを子どもたちに求めるなんてのは、難しいであろう。でも、いいものなのだから、人がまねするのだし、見てもらえば良いということは、間違っていない。どうしたらいい?』

となる。

ここを繋ぐのが出典なのである。

『「この作文は、○○さんの作文を参考にして書きました。○○さん、ありがとう」という一言があるとないとでは全然違うよね。この一言がないから、勝手に使われるのを嫌がってしまうんだな。ま、実際は良い文章を書いている○○さんの文をみんなの前で読み上げるとかするんだろうねえ。

で、君たちの場合。君たちの場合は学問を進めるにあたって、先行研究の論文を引用することになる。その際大事なのが、出典を明示することである。良いものは後世に伝えられていく。その際、このアイディアは誰のものなのかを示すことが、決定的に重要である。それをしないものは、剽窃と言って学問の世界では最もやってはいけないことなのである。

ということで、今日の授業のレッスンは文章の書き方だったね。資料を見て下さい。引用した文章には、出典がきちんと明示されているでしょ』

とまあ、池内さんのクラスのライティングワークショップと私の授業と本質的な部分では変わらないなあと思いながら、一回生の学生たちに授業をしていた。

風邪の熱で頭が朦朧としていたので、うまいこと伝えられたかどうかやや不安ではあるが、ま、そこは熱心に聞く学生たちが受け止めてくれたことであろう。

« 戻ってきました | トップページ | 鬼の霍乱である »

コメント

どうぞお大事に。
検討会の時の話を聞きながら、「ああ、これは座の文学だなあ」と感じていました。
共有の時間って、そういう日本の伝統にもマッチするような気がしませんか。

作文じゃなくて普段の子どもへの指導にこそ,この視点が大事だなと学級に置き換えて読んでいました。子どもの好意の伝え方を上手く手助けできれば,本当に良いクラスになる。そう思いながらどうすればいいかわからず悩んでいたので,この日記を読めてよかったです。

>> イクトスさん

そうですね。座の文学ですね。同じ目的を持って、違う価値観や環境にいるものがあれこれやるのは、実に楽しいものですねえ。ディベートの講座が終わった後のあれこれを思い出しました。懐かしいな。

>>得津くん

指導は文脈の中で意味を持ちます。作文の指導が文脈が合えばその他の指導に有効なことは、十分にあります。ということは、問題意識、課題意識を持って取り組んでいるかどうかということになりますね。良かった良かった。

他人の出典を積極的に活用する作文などは、確かに大学生になるまで教わらないですもんね〜

でも、小学1年生が「出典」を納得してくれるのかなあ(笑)
というのも、これ、まさに今、ウチの1年生の息子が凄く悩んでいることで、先日もお風呂に一緒に入ったときにぼやいていました(笑)。隣の○○ちゃんが僕の答えをいつもまねする・・・と。
親としては
「きっと、お前のことを凄い!かっこいい!とおもって、真似したくなるんだと思うよ〜」
「パパなんて、たくさん真似されているけど、真似されるのはいいことだと思うようにしているよ〜」と
おだて作戦をしているのですが、
「う〜ん、でも、何かヤダ。」と言います。
「何かヤダ」というのは、彼らにとってとても大切な感情なのだろうと思います。
仰る通り「ズルはいけない」という、単純な嫌悪感からきている感じです。
これを、「悪いことではない、積極的に引用せよ」とするのは面白すぎると思います。でも、僕らが受けてきた教育にはなかったので、想像力が働きません(苦笑)。それぐらい逆転の発想ですね〜。
引用する際のマナーや手続きも学べるかもしれません。趣旨の違う文章なのに、都合良く引用して、後でこっぴどく怒られるとか。あるいは怒られないように、根回しするとか。
作文授業のフレームがごっそり変わるのでしょうね。いやあ、それは凄いなあ。

学問と言うのは、そもそも誰かが以前に成し遂げた成果を、引き受けつつさらに発展させて行くものだということが、なかなか理解されないわけです。

教科書に書いてあることは、基本的にすべて誰かが解明したことです。それを教科書と言うことで「出典」が明らかにされていないわけですね。そのことを話したらどうですか。それよりも、きちんと出典を明らかにする方がいいのではないかと。

ずると思うのは、勝手に自分のが使われることにあるのだと思うのです。所有欲というのは、かなり小さい時から持つ人間の本能ですからね。自分の持ち物を奪われるという感覚は、当たり前のことでしょうね。でも、良いものが活用されるという考え方も大事だと思います。私はこれを

『使っていただいてなんぼの情報』

と言っています。どんなに自分で良いものだと思っていても、その良さは活用されて初めて価値を持つというものです。自分だけではなく、自分ではない誰かの役に立ったときにです。

さらに、自分でいいと思って持ち続けていると、その「いいと思っているもの」は、腐敗しがちです。出してしまって、使ってもらっていただいて、自分の頭の中をすっきりさせることで、次の何かが生まれてくるのだと思っています。

まあ、これを小学校一年生に伝えるのは、かなり難しいですけどねf(^^;。

「出典」について意識付けをさせることは
1年生からでもできそうです。
学校に入るときに
「何で勉強をするのか」とか「学問とは」という話を噛み砕いてするわけですが、
そのときに、触りを入れてあげるとよいかもですね。
まだ、間に合いそうなので、試行錯誤してみます。
まあ、最近は、隣の子のカンニングは無くなったのか、
本人は「何の話?」ってなもんです(^^;)

>出してしまって、使ってもらっていただいて、
>自分の頭の中をすっきりさせることで、
>次の何かが生まれてくるのだと思っています。

全く同感です。
スタッフや周囲から「アイツ真似してますよ!何で黙っているんですか!」とよく怒られるのですが、「真似してもらってなんぼ」は次の高みに登る上での大切な心構えだと思っています。
嫌らしい言い方をすれば、次のことを考えている間に、ライバルが勝手に市場を拡げてくれますし・・・。
そうこうしているうちに、もっと素敵なアイデアを思いついたり、人のつながりが生まれているのが、実はすごい財産なんですよね〜。

引用開始 ーーーーーーーーーー


嫌らしい言い方をすれば、次のことを考えている間に、ライバルが勝手に市場を拡げてくれますし・・・。
そうこうしているうちに、もっと素敵なアイデアを思いついたり、人のつながりが生まれているのが、実はすごい財産なんですよね〜。

引用終了 ーーーーーーーーーー

『メシが食いたければ好きなことをやれ!』の著者の、岡野雅行さんも同じような考え方ですね。彼の場合は、自分の技術で誰もが開発できないものを開発し、三年後にはそれをオートメーションで出来るようなパッケージにして、それごと売ってしまいます。

もちろん、その三年間の間にまた他の誰もが真似できないものを開発するわけです。

開発してマーケットを広げてもらって商売する。まあ、良く言われる、ゼロックスが開発し、アップルが商品にし、マイクロソフトが商売にしたというパソコンの流れですが、この三点を意識して仕事をすると言うのは、大事なのだと思います。

コネで仕事をするのではなく、人脈で仕事をする。ここが分かると大きいのですけどねえ。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 戻ってきました | トップページ | 鬼の霍乱である »