私は、違和感だと思っている
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金曜日は体を休める日にしたいなあと思っている。出来ればゆっくりと寝て、だらだらと本を読んでという感じにしたい。
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今日は、午前中食事のあとベランダでお茶を飲みながら、本を読む。読んでいたら、睡魔が襲ってきて、さらに娘が襲ってきた。
「お父さん、起きて!」
との攻撃である。しばらく、私の体の上に寝転がって一緒に寝る振りをするが、結局起こされる。私の読みかけの本には何やら怪しい書き込みもたくさんしてある。私が読みながらあれこれ書いているのを真似しているのだろう。
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昼前に、娘に連れられて出かける。自転車を押しながら近くの公園に向かう。滑り台とブランコだけの公園だがお気に入りである。
「お父さんも!」
と言われて一緒に滑り台やブランコをする。まあ、公園でひとりおっさんが、ブランコに乗っているのは怪しいので、何となく乗りたい時も我慢していたが、いまは娘のお陰で堂々と乗れるf(^^;。ありがたいことだ。
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昼ご飯を外食して、帰ってきたらお昼寝。私も付き合う。付き合いながら、あれこれ考える。卒論指導に関わってのことである。
「全ての意見は反論である」
宇都宮大学教授の香西秀信氏は、このように述べていたはずだ。納得するならわざわざ言わなくても良いわけである。意見は反論だ。
その反論を、主張と根拠を元にして論理的に意見を構築し、反論して行くと科学になる。科学とは反証可能性のことであると、カール・ホパーが言う通りである。
その通りなのであるが、そんなに簡単に反論は見つからないのだ。数学者の藤原正彦氏は、
「論理とは、1足す2足す3足すと繋げて行くものである」
のようなことを述べた後に、
「では、最初の1はどうやって手に入れるかと言うと、論理では手に入れることができない」
と言っている。たしか、『国家の品格』(新潮新書)だったような気がする。じゃあ、どうやって手に入れるかと言うと、藤原氏は直感だと言っていた気がする。
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さあ、こうなるとあれこれ考えるのである。
問いがあって、論証があって、答えがある「論文」を書くのに大事なのは、論理性だけではなく、問いを得ることである。そして、その問いを得るには、論理性では得られないということになる。
であるとすれば、その問いはどこから手に入れるのであろうか?
私は、違和感だと思っている。
1)違和感を得る
2)疑問を持つ
3)問いを立てる
4)仮説を立てる
5)論証する
6)答えを出す
という流れである。論理性が必要になるのは、3)から先ではないだろうか。
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じゃあ、どうやったら違和感が得られるのであろうか。
この辺りで昼寝に入ってしまった。
続きは夢の中で考える私であった(^^)。
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