じゃあ、どうやったら違和感が得られるのであろうか
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じゃあ、どうやったら違和感が得られるのであろうか。
この辺りで昼寝に入ってしまった。
続きは夢の中で考える私であった(^^)。
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で、考えた。まじめに素直に勉強する私と、本当にそうなの?と疑う自分の両方が自分の中にいることが大事。
勉強というのは、素直に指導者の指示に従いまじめにやることで伸びる部分が多い。一回一回算数の問題にケチを付けてもダメである。
「リンゴ三つとみかん二つは足すと何個になるでしょう」
という問題に
『そんなものは、足せない』
と言い張る小学校一年生の時の私のような子どもは、アウトである。勉強による成績はなかなか伸びない。先生からも嫌われるf(^^;。
ところが、指導者の指示を疑いも無く受け入れ続ける体を作ってしまうと、今度は先生の説明に、文章の中に疑いを持つことができなくなってしまう。なんでも納得してしまうのだ。だから問いが立たないのである。
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ざっくり言うと、高校まではまじめに素直に勉強することを求めているのが日本の学校である。しかし、大学は専門課程に入る頃から、論文を書かせる頃から疑う自分が重要になる。
嘗ての池田少年は、大学生になってやっと日の目を見ることになったのであるf(^^;。ま、同じ世代の仲間からは相変わらず変なやつと思われていたが、上の世代の仲間からはおもろいやつと思われるようにもなって行ったのが、この頃だったなあ。
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素直にまじめに勉強しないと、基礎的なものは身に付かない。だからこれは大事。だが、鵜呑みにしないことを意識しないとダメと言うありきたりの答えにたどり着く。
もう少し考えると、勉強においてはなんとか理解のところまでは到達すべきであろう。しかし、納得いかなかったものは、そこに違和感の芽があるはずである。無理矢理納得する必要は無い。そこが大事な部分なはずである。
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嘗て、ファイルメーカープロに修士論文のデータを入力しているときに強く感じたことがある。
(を、これは修論の良いデータになるな)
と文献を引用のために入力していると、そのデータは自分の主張を支えるためのデータであるにもかかわらず、そのデータに反論したくなるという経験を多くしたのである。
私は「本当にそうなの?」という部分が強いのだなあと改めて思ったものだ。研究をするためにはこういう私の部分は強みになると思う。が、日常生活を送るには相手から見ると迷惑な存在だろうなあとも思う。
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頭のどこかにこの二つを切り替えるスイッチがあって、そこを押すと切り替わる面白いなあとは思う。だが、これは無理。しかし、そういう意識をするだけでもかなり違うんじゃないかなと思う。
少なくとも私は、日常生活をなるべく人様に迷惑を掛けないように生きるために、切り替えて「まじめに素直に」ということを考えて生きている(つもりだ)f(^^;。
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コメント
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この日記を読んで,すぐに思ったのが「生意気で謙虚」でした。
学生のとき以上にこの言葉が含む意味を感じる今日この頃です(笑)
投稿: 得津秀頼 | 2010/05/01 09:57
真実の言葉は、いつも短いものなのだ(^^)。
投稿: 池田修 | 2010/05/01 19:53