いわゆる正解のない問題である
5/25−2
昨晩はうっかりリビングにおいた自立式のハンモックの上にネッ転がったのがまずかった。寝てしまった。そのまま朝の4時過ぎまで寝てもうた。
お陰さまで久しぶりに琵琶湖から昇ってくる朝日を見ることができた。いや、そんなことを言っている場合ではない。まだ風邪が治りきっていないのである。
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寝直そうとも思ったが、まあ、6時間は寝ているのでまずは仕事をしてしまい、その後、時間があったら、30分でも寝直せば良いと思って、動き出す。
風呂に入り、読書をする。朝の「風呂」読書である。今読んでいる本は、相当面白い。読み終わったらブログで紹介するかもしれない。いや、しないかな。
というのは、私の授業に関するアイディアをどんどん刺激するのだ。今朝の風呂の時間だけで、授業を修正するアイディア、卒論指導のアイディア、論文のアイディア、新しい授業を作るアイディアなどがどんどん生まれてきた。こういうものは学生に予習されても面白くないf(^^;。
本当は、「早起きは三文の徳」だが、こういうときは「三問の得」のような気がする。三つの良質の問いを得たような気持ちがするってことだ。
結局本に興奮して30分寝直すことはできなかった。ま、これも良しである。
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1限と3限は、教科教育法(国語)の授業。
私は授業では、殆ど板書をしない。どんどん話していく。それを学生たちがメモをするという形式で行っている。もちろん、ディベートを学んだ私は、ナンバリングとラベリングをきちんとして話している。だから、学生たちはメモをしやすいはずである。
ところが、このメモをしやすい話し方というのが、一つの新たな問題を生むのである。世の中の人たちは、そんなにしっかりとナンバリングとラベリングをしながら話してはくれない。だから、私がしっかりと話せば話すほど、学生に楽をさせて力をつけないということにもなりかねないのだ。
そこで、今日の授業の冒頭の部分は、ナンバリングをせず、ほとんどラベリングもせずに話すということを宣言して、授業を始めた。その結果どうなるのかを感じてみると良いということで行った。
結果としては、やはり圧倒的にメモが取りにくいということであった。この経験を自分が先生になったときに生かして、ナンバリングとラベリングがしっかりできる話し手になるようにと話す。
あ、もちろん、その後ナンバリングを施した概略も伝えました。
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で、本論は漢字の指導についてである。
ま、これは『教師になるということ』(ひまわり社)に書かれていることを主として行った。
だが、本には書けないあれこれの事例や、指導の観点や方法などもふんだんに取り入れて、大学の授業では行う。授業実践は豊かに行われるのである。
漢字指導を通して、学習指導とは何なのか、その一つの典型を示すというのが、今日の授業の目的である。学生たちは、一瞬で書けた「薔薇」の漢字を見ながら、一連の指導の凄さにおののくのであった(^^)。
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その後、学生の相談を受ける。
いわゆる正解のない問題である。
正解のない問題というのは、どちらを選べば自分の人生が充実するか分からないという種類の問題である。
この種の問題にぶちあたるとき、私が考えることは次のことである。
1)問題を問題と考えずに、問題は課題と考える。問題であれば、それは愚痴や不平や不満になるが、課題は解決すべき対象になる。多くの場合、問題は課題である。
2)多くの人にアドヴァイスを求め、決めるときは一人静かなところで、自分で決断を下す。
3)悩みの本質は、過去と未来にあるので、今を精一杯頑張るようにする。(あのときこうしておけばなあ、が過去で、これから大丈夫かなあ、が未来である)今を懸命に生きるものは、悩んでいる暇がないのである。
4)出した結論は、正解かどうかは分からないが、その後の自分の行動で結果的に正解にするようにする。
5)仮に正解にならなかったとしても、その責任は自分が背負う。
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私は、だいたいこの方針で行うことを心がけるようにしてきた。特に1)が大事だと思っている。世の中は問題だらけと考えるのか、課題だらけと考えるのかで、その後の取り組み方が全く違ったものに見えてくる。
解決すべき課題なのだと考えること。とても大事なことだと思っている。
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しっかり。期待している。
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