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2010/11/25

一時一事の原則と空白禁止の原則は、指示のベクトルが違うのではないだろうか?

11/25

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三限の二回生ゼミでは、フィールドワーク報告会を行った。学生たちが現場に入って子どもたちの様子を観察する時間を定期的に作って指導しているが、そこで学んだことをハンドアウトにまとめて、報告し合う時間とした。

方法は、書き込み回覧作文方式で全員のハンドアウトを読んで、その後に気になったまとめを選び、質問をするというものである。

この中で特に学生たちが気になったのは、小学校一年生のクラスで、運動会のときの新人の先生とベテランの先生の違いについての発表であった。新人の先生は丁寧に説明している。ベテランの先生はポイントだけ説明してる感じがする。それでいて、結果的にベテランの先生の方がうまくできている。これは何なのかという発表であった。

これについてさらに詳しく聞いてみる。そこで分かったのは、

・ 最終的なゴールは何かを理解して指示を出しているベテランの先生。
・ 一時一事の原則で指示を出している新人の先生。
・ 空白禁止の原則を重視して指示を出しているベテランの先生。
・ 個人の指導をする新人の先生と、グループの指導をするベテランの先生。

これらの違いが分かった。
学生の目からは、うまく言ったのはベテランの先生で、それはなぜなのか。端的な説明ができたからではないかという答えになっていた。ま、それはそうなのだろうが、私は違うことを考えていた。

最終的なゴールは何かを示して、その後指示を出すというのは、「古畑型」の指示の出し方である。目的を示し、ここにたどり着くためにはどうしたら良いのかを考えさせる。そして、足りない部分はお互いに補い合いながら進むことを求めているのが、ベテランの先生ということであった。

もちろん、一時一事の原則は重要である。ここができていない若手は、クラスが崩壊する。ではあるが、これは言ってみれば「コナン型」の指示の出し方なのかもしれない。ゴールが見えにくいため、どこにたどり着くのかが分からない。だから子どもたちが不安になるのである。

クラスには子どもの差がある。この差をうまく活用することができれば、古畑型で個人ではなく、グループや集団を動かしながらゴールに達成することができるのではないかというのが、今回の結論となった。

新人の先生の一時一事の原則に従った指示の出し方が悪いということではない。しかし、今回のベテランの先生の空白禁止の原則の指示がうまく機能していたと言えるのではないかということである。

一時一事の原則、空白禁止の原則は、『授業の腕をあげる法則』(向山洋一 明治図書)にある有名な法則である。この本は何回も読んだのだが、読むたびにやっぱりこの部分がよく分からなかったのである。

一時一事の原則、空白禁止の原則はそれぞれは分かる。しかし、一時一事の原則を行うと、できる子とできない子の差が出てしまい、空白が生まれるのである。そうすると、空白禁止の原則に抵触するのである。

空白禁止の法則には、「まず全体に、大きな課題を与えよ。然る後に個別に指導せよ。」とある。つまり、目的を与えよということである。

何が言いたいか。つまり、一時一事の原則と空白禁止の原則jは、指示のベクトルが違うのではないだろうか? もっと言えば、私が言う所の「コナン型」と「古畑型」の違いではないだろうかと、今日学生たちに説明しながら思っていたのだ。

だから、一時一事の原則、空白禁止の原則を原則の10の中に並列で書くのは、混乱を生むのではないかなあと思うのだ。というか、私は20年近くすっきりしていなかったのだが、今日の授業で一つ解決の糸口が見えたような気がした。

一つの説明をしながら、もう一つ自分の頭の中にひらめいてしまったアイディアを考えながら進める授業は、そんなにあるわけではないが、そうなったときは大概私は面白いことになっている。

今日は二限の四回生の卒論ゼミも面白かったのだが、私自身のインパクトは二回生ゼミだったなあ。ああ、面白かった。

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