大きな判断、大きな行動というものは、実は必要ないんだなあと思う
11/16
娘は朝機嫌良く起きてくるときと、そうでないときの差が激しい。今朝はまあ機嫌の良い方。
そして、「明日お人形作ってね」という寝る前の約束をしっかりと憶えていて起きてきた娘。記憶というか自己の統一性というか、凄いなあと思うよう。で、約束は守らなければならない私は、朝からティッシュボックスでお人形作り。工作なんてすっごい久し振りだ。
こうして、子どもによって親に育てられて行くのだろうなあと思う。
一緒に作っている最中に、自分の間違いを指摘され、それが分かったときに歌を歌って誤魔化そうとする娘。それはそれで可愛い。
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大学に行く時間になった。今日は翌日の推薦入試のために前泊するので、娘とはちょっとだけ長いさよならだ。靴を履いて出かけると、エレベーターのところまで見送りに来るようになった娘。嬉しいなあ。
その後、駐車場から車が出てくるまで玄関で待っていてくれる。ゲートから出てくると大きな声で叫ぶ。
「いってらっしゃーい。気をつけてね!」
は良いのであるが、
「お菓子を、もし食べたかったら大学の研究室で食べてね‼」と。参ったf(^^;。マンション中に響く大声で見送られながら、大学に到着。
私が何者かが、マンション中に知れ渡ってしまう日もそんなに遠くはないかもしれない。
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研究室のiMac27に接続してあるTimeMachine用の外付けHDの調子が今ひとつ。ユーティリティソフトで診断したら修復せよとのこと。やってみたら修復できないので消去してやりなおせとのこと。昔ならドキドキしながらだったが、今は随分安心してできる。
丸ごとバックアップをさせながら、出張に出かけることにする。
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思ったよりも早くホテルについてしまった。MacBook Proは置いてきてしまったので、iPhone4であれこれやる。Bluetoothのキーボードは持ってきているので、入力はそれなりに快適。
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昼間読んだ、@yamauchitaiji さんの、土井隆義先生の講演会に関する連続ツイートが面白かった。それについてあれこれ考える。
土井先生は、かの『友だち地獄』の著者である。講演会で、土井先生はかつての若者は価値観が同一の社会から抜け出そうとすることが、かっこ良いことだという時代があったという。
そして、いまは同一の価値観のない自由な中に若者はいるので、自由で不安であるという。だから、友達と群れるのだのようなことを言っていた。勉強が目的ではない日本の子どもの学校に行く理由。 友達と会うが理由の日本の子ども。だから、友達がいないとダメなのだ。
自由になった今、若者は自らが壁を作れることが格好いいこと、力のあることになったのかもしれない。もしそうだとすれば、若者の前に壁になって立つことは今の若者にとってはあまり意味がないのかもしれない。壁を作る乗り越えることが発達課題であった時代ならこれは意味がある。
しかし、壁を作る作ることが発達課題などだとしたら、大人の役割は壁を作るための広場を用意することかもしれない。広場にとりあえず人を集めることかもしれない。そんなことをふと思った岡山の夜。
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その後、食事に。
岡山の瀬戸内海の魚と酒が私を読んでいるのは良ーく分かったのだが、風邪の薬を飲みきるまではお酒を飲まないという娘との約束を思い出し、我慢我慢。
もちろん破った所で、娘には全く分からないが、それはなんというかこちらの側のやましさになるような気がしてね。そういうやましさというのは、子どもに移るでしょ。
お父さんは、我慢しました。
ラーメンで凌ぎましたf(^^;。
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大きな判断、大きな行動というものは、実は必要ないんだなあと思う。小さな判断と小さな行動からしか始まっていないのだ。ま、このぐらい良いかと許してしまうことが、大きな過ちに繋がるものだし、ここは少しだけやっておこうが、大きな結果につながって行くものである。
実に小さなことで、誰でもできるように思えることだ。だが、それは実に難しいことだ。毎日朝、一錠の薬を一年間欠かさずに飲むことがどんなに難しいか。簡単なことほどやること、やり続けることが難しい。
ここをやり続けることのできる人が、事を成すのだろうなあと思うのだ。ま、私だって10日ぐらいは断酒を続けることができたと、誰もいないホテルの部屋で、えっへんと自慢するのでありました。
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