つまらないものですがとバージョンアップの思想
「♪つまらないものですが、受け取ってください」
「つまらないものでは、受け取れません」
「その日小池さんは笑っていたけど、次の日ゴミ置き場を見て泣いていた」
というのは、所ジョージさんの名曲「春二番」の一節である。もちろん、日本人がよく使う「つまらないもの」は、自分では一番いいものをと思って選びましたが、受け取るあなたから見たらつまらないものかもしれません。そうでしたらすみませんという意味である。
この「つまらないものですが」というのは日本人のメンタリティをよく表しているなあと思うのだ。提出する側はとにかく最前のものを作り、完璧なものを提出するという発想だ。そして、その結果において相手にさらに申し訳ないかもと思っている。
私が興味を持つのは、提出するときは100%のものを出すというメンタリティの部分である。つまり完成品を出す。そうでないものは不十分なものであり、相手に失礼であるという部分である。何せ、その上でまだ相手のことを思うぐらいだからね。
日本人が質問が下手なのは、実はこのメンタリティも関連しているんじゃないかなと思う部分もある。相手が完璧なものとして出している意見について、質問してあら探しするなんて「失礼」という思いだ。
そんな日本で、この発想を根底から揺すぶったのが、コンピュータのソフトであろう。OSでもいい、ワープロソフトでも良い。ここにはバージョンアップという思想がある。これは現状のものが100%という考え方とはちょっと違うように思える。
つまり、(これは、ま、現状では完璧だと思うけど、さらにもっと良くなるかんね。いまでは良いってことだからね)ということを示している。もっと言ってしまえば、(間違いはあると思うよ。使ってみて。おかしかったら言って。直すから)というようにも思える。
この発想は、日本人の考え方からすると、大変「失礼」なのではないだろうか。だが、この考え方がコンピュータの普及とともに一般的になってきたとき、日本人のメンタリティも変わってきたかなあと少し感じている。
学校教育に引き寄せて言えば、教材開発も、学級のルールも、完璧でない教材、クラスの指導方針などは出すべきではないという変な暗黙の了解があったように思うが、これが薄れてきたのではないかと感じる。
少なくとも私は、何が何でも100%でなければならないという呪縛からは解放されてきている。ちょっと楽になった。ーま、人様は私のことを(え、呪縛されていたの?)と思われるだろうがf(^^;ー 現状の100%でいいと社会が認識し始めたので。
これから日本は少しずつ、「もしつまらないものでしたら、どこがつまらないか言ってね。お願いします」ぐらいになって行くのだろうか? ちょっと楽しみ。
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