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2010/04/21

本日は、某番組でも行っている「列挙」と「ナンバリング」である

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天気予報では今週中は雨だったのだが、今日は晴れの予報。

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それならば、お父さんは頑張らなければならない。娘の成長を祝ってプレゼントした自転車を取り出すのである。昨日届いていたのだが、雨だったので出さないでいたのだ。

朝ご飯を食べて、段ボールから取り出す。保護してあるエアマットを取り外し、稼働部の動きを確認する。娘は段ボールに入っているときからうれしそうにしている。体をねじって喜んでいる。子どもはそうでなくっちゃ。

自転車を乗せても良いエレベータまで行って、一階のロータリーに向かう。そこで、初自転車である。勢い込んで乗るものの、まだペダルが半分しか回せない。時々おりて、自転車の向きを前のタイヤを持って変えている。なんともまあ可愛いものだ。

30分も漕いだであろうか。思った通りに行かなかったのが不満だったのか、思ったよりも短時間で一回目の挑戦は終えた。これからが不安でもあり、楽しみでもある。まさに、子育てである。

ひげを剃って大学へ向かう。研究入門ゼミ。

本日は、某番組でも行っている「列挙」と「ナンバリング」である。1分スピーチを作らせるのだが、その方法として特にこの二つを指導する。

考えるということは、拡散と収束の二つの作用であると内田伸子先生がおっしゃっていたと思う。私はここにあと、関連づけが入るのではないかと思っているが、怖くて言えない。言えないけど書いているf(^^;。

とまれ、この拡散と収束の二つの違うベクトルの作業を、あれこれしながらスピーチ原稿ってものを考えるのだ。スピーチ原稿や作文が苦手な人に多いのは、この二つを同時にやってしまうことにある。拡散と収束を同時にやれるのは、相当訓練を積んでいる人か天才かどちらかである。一般人にはいきなりはできないのが普通である。だから、これを二つのステップで行う。

拡散は拡散。収束は収束。そのときに必要なのが、列挙とナンバリングとあれこれである。そのことを今日は指導した。

さらに、課題にしておいた名刺作りの確認。名刺の渡し方、受け取ったあとの作法などを指導した後、人生最初の名刺交換をしてあげる。

学生は社会人である。外の人とどんどん交流をすべきである。その交流のツールの一つが名刺である。活用してほしい。

昼食後、少しだけ時間があったので、学内を散歩。
アメリカハナミズキ、八重桜などを楽しむ。また、大学の裏山は、まさにいま「山笑う」である。

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命の洗濯。

研究室に戻ってくると、研究室の前の教室で黒服スーツの集団。学生たちが自主的に集団面接の勉強会を開いている。いいことだ。面接する側に回ると、自分の足りないところがよくわかるものである。交代しながらあれこれやっていた。

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「先生。一回生のときに言われたことがよくわかります」
とある学生。
『ん、なに?』
「面接の前に、急にきちんとはできないってことです。先生が一回生の頃から厳しく言われていたあれです」
『だろ?』
「はい」
『感謝しろ』
「はい。もっと厳しくても良かったです」
『あんなに嫌がっていたくせになんだ!!』

なんて会話になる。
ま、やってきてよかったということである。

その後さらに、人間発達学部になってから初めての教授会。それに、学科会議。いやあ、いろいろある。

日も暮れた。
帰ろう。

2010/04/20

こういう時間がいいなあ

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国語の授業の作り方を教える授業をしている。いろいろな作り方がある。読解にしても作文にしても、いろいろとある。それは目の前の子どもの実態と、先生の指導の力量によって、さまざまなものが選択されて作られていく。

だが、声と板書は、どんな授業をするにしても同じく必要だと考えている。

授業の作り方の最初の部分は、声と板書にこだわって指導している。特に板書は、毎週課題を出す。一回目は、自分の名前を大きく書くである。教育実習のときに、自分の名前を大きく書く。その名前を書けという課題である。書いた後は、デジカメで撮影し、授業用のネット掲示板に貼付けるのである。これを15回繰り返す。

一回目の課題の提出後、チェックする。
まあ、汚い。醜い。読みにくいのである。書道をやっていた諸君でも、いきなりは書けないのである。

授業では、どこに注意して書くべきなのかを指摘する。先日のNHK教育テレビ「高校基礎講座ベーシック10」の【スザンヌの「勉強できない!」脱出計画 】で、りあるキッズを相手に授業した内容である。

勘所を押さえて、書かせるとぐっと良くなる。ぐっと良くなると、もっと良くなりたいと思うのが人間である。学生たちは、空き教室を使って板書の自主トレーニングに勤しみだした。

研究費の処理をして、事務方に提出してほっとして帰ってくると、私の研究室の前の教室で、数名の学生たちが板書に挑戦している。後ろから見ていたのだが、あまりにも汚いのでf(^^;、特別指導を始める。

『だから、こうしてああして』

具体的に見本を示して、私の書いた字の上からなぞり書きをさせてと指導する。一時間ぐらいやったかな。見るも無惨だった自分の名前の字が、少し人に見せられるような字になった。ああ良かった。

だけど、会議よりも、事務処理よりも、こういう時間がいいなあ。学生を鍛えるために大学の教員になったのだ。こういう時間がいいなあと思う。

あ、今日は、「伝える極意」で一緒に戦ったディレクターからの電話もあった。
新しい番組の相談であった。
ドキュメント系の番組制作は、一緒に番組に関わったメンバーは、スタッフ一同戦友という感覚になる。戦争には行ったことがないが、戦友ってのはこんな感じかなと思う。

電話越しにあれこれ相談に乗る。いい番組になりますように、ってこれも関わっている番組なんだけどねf(^^;。

ちなみに「伝える極意」は、ご好評のようで再々放送になっております。
近々私が出演した回の一回目が流れます。

「1分間で思いを伝える〜スピーチ〜」本放送:平成22年4月22日(木)10:40〜11:00 NHK教育テレビ 再放送:平成22年5月 6日(木)10:40〜11:00 NHK教育テレビ 

良かったらご覧ください。

さらに、今週末の明日の教室の後の懇親会のパーティの準備もして、一日のお仕事はまあ、おしまい。

ちょっと頭の右上内部に痛みが続くのが気になるなあ。
今日は早く帰ろう。

ちょうど今日の京滋の雨のように

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雨である。今日からしばらく京滋は雨である。
紅枝垂桜、八重桜と咲き誇っているところに雨というのは、少しもったいない気もするが、今を盛りのタケノコや次のツツジやさつき、さらにクチナシと続く花のためには、大事な雨である。

いまさらなんでと思われるかもしれないが、大村はま先生の本を読んでいる。私は中学校の実践の場にいるときには、一冊も読まなかった。これはへそ曲がりの私のやっていたことなので他の人の参考にはならないが、私は読まなかった。

私が興味があったのは、私の目の前の子どもたちと私の実践である。他の人の実践はさほど興味がわかなかった。特に国語の授業に関しては、子どもと指導者が違うんだから、他の人の実践を持ってきてもダメだろうという思いが強くあった。

それに、なんというか、他の人が考えて出した答えというのは、その人にとってはジャストフィットであろうが、それが私と私の生徒たちにジャストフィットするとは考えられなかったし、だらしない私は、改良することもなくそのまま安直に使っていたであろうと思うので、国語の実践家の文章は読まなかった。

自分で考えたかった。他の国語の実践家の実践を参考にするってのは、私にはあまり向いていないと思っていた。だから、読まなかった。

もちろん、国語ではないものや、新しい指導方法を開発しなければならなかったディベートについてなどについては、ずいぶん読んだけど。そして、そこからインスパイアされるものの方が、私にはあっていると思っていた。

で、なんで今読んでいるのかといえば、そりゃあ、さすがに教員養成大学で国語を担当していて、大村先生の本を読んでいませんでは通用しないからである。学生たちに学びの機会を与えにくくなるからである。国語教育に関してエンサイクロペディアとまではいかなくても、その目次項目ぐらいは網羅せねばならないからねえと思うのである。

いま大村先生の本を読んでみて、思うのは、やっぱり読まなくてよかったというのと、読んでいてもよかったかなという思いが半分ずつということである。

読まなくてよかったという理由は、私の予想していた通り。ま、大村先生のと同じというのはおこがましいが、同じような発想をされているところがあって、これを現場にいたときに読んでしまったら、生徒と自分で考えることなくそのままやろうとしていただろうなということである。

遠回り、寄り道の多い私の人生であるが、振り返ってみればその部分が面白い。大事だったりする。その部分を通らないで結論にたどり着いてしまうのは、実はつまらない。ところがそうなる可能性があるようにも感じたのだ。

読んだ方がよかったというのは、ま、その裏返しかな。私が考えていた突拍子もないと思われることを大村先生もおっしゃっている。もし、それを知っていれば、

『いや、私がいっているんじゃないんです。大村先生がいっているんです』

と出典を明らかにして実践を守ることができたのではないかと思うのである。ではあるが、こうして誰かの言葉で守られる実践というのも、私は、あんまりよしとしなかったので、使わなかったかも。いや、人間が弱いから使っていたかな。なんてことを思ったりしながら読んでいるのである。

そして、いまは大村先生の言葉を受け取り、学生たちにどう伝えようかと考えているのである。

良いものを受け取って、次の世代へとつないでいく。
良くないと思われるものも、実は他の何かにとっては大事なものであることもある。であるならば、まずは受け取ることだろう。

ちょうど今日の京滋の雨のように。

2010/04/19

大切なのは、問うのをやめないことだ

4/19

月曜日は、三回生ゼミと国語科教育法の授業の日である。教えるべきことはたくさんある。そして、時間は少ない。中学校のような授業の作り方をしていてはとてもじゃないが、間に合わない。だから、資料を用意し、学生諸君が自分でその資料から学ぶようにしなければならない。

ではあるが、その資料が何を意味しているのかなども説明しないとダメだ。四月は、ガイダンス的に授業を進めていくことになる。

たとえば、『日本の論点』がなぜ大事なのかということを、文章を書くとはどういうことなのか、いや文章の種類にはどんなものがあって、君たちが卒業までに書こうとしている卒業論文との関係はどういうふうになっているのかなどを説明しながら、授業を進めていくことになる。

「大切なのは、問うのをやめないことだ。」とかのアインシュタインは言った。この問うとはどういうことなのかの意味を理解しないと、専門課程に入ってきた彼らが育つ道はない。

違う授業であるにもかかわらず、同じような例を出すこともある。二つとも受講している学生には、聞いたことのある内容になる。ま、仕方がない。それよりも、二回の授業で私が話しているものの微妙な違いは何か、またなぜその違いがあるのかを考えながら授業を聴けばいいのである。そして、それは実はとても大切なことなのだということに気がつくことを期待して進める。

基礎資料の探し方
教師にとっての、文字、声、姿勢などについてあれこれ講じる。

夕方は、授業の準備。
まあ、終わらないねえ。
途中にメールが入ったり、電話が入ったり、訪問があったりで進まない。
だけど、みんな四月はそうだろうから、あきらめてあれこれする。

それにしても、ちょっと大きな仕事の打診のメールが入っていたのには、驚いた。うーむ、いいのか、俺で。依頼なんだからいいんだろうけど、いいのか?

うーむ、今日はここまで。
帰ろう。

そのレストランは、江の電の駅のすぐ側にある

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さ、一週間が始まる。
琵琶湖は奇麗だ。

この琵琶湖の景色、どこかに一つの原体験があるんじゃないかなと思っていたのだが、由比ケ浜だ。由比ケ浜のとあるレストランから見た景色を思い出せる。

そのレストランは、江の電の駅のすぐ側にある。そして、崖の斜面にあって、お客さんはその崖の階段を上って行かないとたどり着けないのである。

ただ、そこからの180度パノラマの景色は絶景で、風も心地よく、食事の後もゆったりと読書をすることができた。また足を運んでみたい店だ。

朝、仕事に行く準備をしていて、それをふと思い出した。
ちょっと幸せな気分である。

2010/04/18

四匹の蛸さんをテーブルに並べた

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親ばか四連発の記事である。

娘は、道具に凝っている。
今はハサミである。
モンテッソーリではないが、道具に凝っているのは分かる。

娘専用の歯がギザギザで手を切ることの無いハサミ。それから、大人用に作られている中型のハサミに大型のハサミ。これが好きで毎日あれこれ刻んでくれている。

私の草稿を刻んでくれるのは、自家製手動シュレッダーのようでありがたいのだが、娘は折り紙を切り刻むのがことの外好きで、紙吹雪にして遊んだりしている。

今日は、折り紙の下半分をいくつも途中まで切っては喜んでいた。そして見せにきたので

『蛸さん、作ろうか?』

と言って一緒に、というか私がほとんどだが、作った。
丸めた折り紙を糊で止めて、目を入れて、足に該当する部分を鉛筆で丸めて出来上がり。

すると、当然

「やる!」

と目を輝かせる。
目を入れる作業をさせた。

楽しそうに作って、四匹の蛸さんをテーブルに並べた。
私が写真を撮ると、娘も一緒にオリンパスのμで撮影している。
はっきり言って、μについては私よりも機能を良く知っている感じである。

ものを一緒に作るってのは、コミュニケーションだなあと思う。

Takodance




もう一度言語化しなければならないのである

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公園の滑り台が大好きな娘。お尻で滑るだけでなく、ウルトラマンのように前から滑り降りて、一番下に来たら両手でブレーキをかけることもできる。おいおい、誰に習ったんだそんなの?と思う。

ブランコに娘が乗る。そんな娘だから立って乗ることもできる。ところが、
「おとーさん、やって!」
である。
まだ、漕ぐことができない。

学生たちにこんなことを質問する。

『アー諸君。君達は、靴のひもを結べるかね?』

もちろん、学生たちはハイ?と答える。怪訝な顔をして、うなずくわけである。
そこで、

『では、君達。その結び方を口だけで説明してみたまえ』

こうなるとこれは結構難しいのである。
嘗て、私たちは親から靴のひもの結び方を学んできた。口で言われ、目の前で見せられ、手取り足取りで靴のひもの結び方を教えられ、それが出来るようになってきたのである。

いま、私たちは靴のひもが結べる。それは一回一回頭の中でやり方を言語化して行っているわけではない。手が勝手に動くのである。だから、言語化して説明するとなると結構難しい。

動きというのは、

1)言語で説明される、見本で示される、一緒にやる
2)できるようになる
3)1)が消える。だけど出来る。

という流れで習得されることが多い。車の運転等を思い出してもそうである。マニュアル車を運転している人が、クラッチを意識して運転しているとは思いにくい。シフトレバーの位置を確認しながら運転しているとも思えない。

授業を進める教師も、この構造を理解しなければならない。もう既に、言語を必要とせずに自分で出来る教師は、これから言語、見本、一緒にやるということを通して、体に覚えさせることをする子どもたちを相手にしているのである。

だから、もう一度言語化しなければならないのである。これが難しい。わかると、できると、教えられるは、違うのである。

『えっとね。立ち漕ぎの時は、こうやって前に行くときに膝を曲げるんだよ』

ブランコの漕ぎ方を、言語化し直すことになろうとは思わなかった私である。

機が熟すのを子どもは待っている

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娘の成長を楽しみつつ、あれこれ考える。長女で末っ子の娘である。誰かと比較する必要もない、娘の成長に従ってあれこれやって行けば良いと思ってやってきている。

離乳食のときに、特に強く思ったことがある。誰と比較するのではないのだが、ま、この月齢だとどんな感じなのかなと本を読んだりするわけである。離乳食はいつ頃からあげるのかなどが書いてある。

私が育児書を読んでよく分からなかったのは、なんで歯も生えていなうちから離乳食をあげるのかであった。三ヶ月になったら、これを与えて、五ヶ月ならこれとなっている。直感的に
(違うだろ!)
と思った。

草原の草食動物は、産み落とされた瞬間に立ち上がって走れる。それはそういう必要があるので、そのように生まれてくるのだ。もちろん、全てが必要だから存在する、発生するということではないだろうが、人間の子どもだって、歯は噛む必要があって生えてくるのであろうと私は思う。

三ヶ月で離乳食をするってのは、どう考えてもおかしいと思うのだ。だから、我が家では歯が生えるまでほとんど離乳食は試みなかった。

で、聞くところによると、早く始めるとあれこれ良く無い症状が出る場合もあるという。歯や胃腸が育ってないのに食べさせるってのは、やっぱり変だと思う。

何ヶ月になったから、何歳になったからというのは、社会の側の要請であって、子どもの側からの必要性ではない。すくなくとも学校に行くぐらいまでは、子どもの側からの必要性や要求に基づいて、対応をしてあげたいなあと思う。

このごろ、突然自分であれこれ出来るようになった娘を見ていて、
(ああ、もう○才だから、これが出来ないとダメだよという育て方をしなくて良かったなあ)
と思う私である。

機が熟せば、大丈夫なのだ。機が熟すのを子どもは待っている。待てないのは親の方なのだろう。親業は、我慢我慢。


つくづくアニミズムの国に住む私

絆創膏が好きな娘である。ちょっとでもぶつけたり、引っ掻いたりすると絆創膏を求めてくる。それも、ちっちゃいのが好きで、ちっちゃいのを貼れと言う。

いろいろなサイズの入っている缶の中を捜してちっちゃいのを貼る。それが無くなると大きいのを半分に切って貼る。満足な娘。

一晩経って、手を見ると絆創膏がはがれ始めている。
「はがれてきたの」
と手を見せる。
『ああ、それはもう傷が治ってきたよ、って絆創膏さんが教えてきてくれているんだよ』
と説明する。

娘は、一生懸命に貼り直そうとしている。
『ほら、もう大丈夫だよ。治ったよって教えてくれているから、くっつかないでしょ』
そのうち、娘は
「取って!」
と小さな手を出して、剥がすことを求める。剥がしてみると、ほとんど大丈夫な傷である。

つくづくアニミズムの国に住む私だなあと思う。絆創膏にまで人格を認め、そして、絆創膏が傷の治療を司る神に見立てて、娘に語っている。

キリスト教の世界では、こう言うときなんて言うのかなあと思う。
やはり
「傷が治ってきたから、神様がもう剥がしなさいって指示を出しているのよ」
ってな感じになるのだろうか。



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