« 2010年12月19日 - 2010年12月25日 | トップページ | 2011年1月2日 - 2011年1月8日 »

2010/12/30

「さて、私の草履はどこにいったかね?」

12/30

Img_1265

なぜだか知らないが、頭の中に昔読んだ笑い話がずっと浮かんでいた。今日の午前中だった。

明治の文明開化のときに、陸蒸気(蒸気機関車)に乗ったオバアさんの話だ。そのオバアさんは、陸蒸気に乗るときに、草履を脱いで乗りこむのである。そして、下りるときに、

「さて、私の草履はどこにいったかね?」

と聞くという話である。たぶん、小学校のときに読んだ話だ。

小学生の私は、(馬鹿だなあ)と思った。(そんな、当たり前じゃないか。乗ったところと、下りるところは違うんだから。落語の話にもそんなのあったけど、馬鹿な人はいるんだなあ)のようにも思っていたと思う。

だが、馬鹿だなあと言い捨てきれるものでもない、何かが残っている違和感もあった。小学生の私には言語化できないなにかだ。

正月のあれこれの買い出しに、東京の私の街である聖蹟桜ヶ丘近辺をうろうろする。とても利便性の高い街で、どこになにがあるのかさっと分かるし、大概のものは手に入るので動きやすい。

それが終わってから、ちょっとだけ家を見に行った。というのは大規模修繕が終わって奇麗になったからそれを見ようと思ったのだ。

ショックを受けてしまった。
我が家からは夏の花火大会の打ち上げ場所がよく見えていて、仲間たちと花火を見ながら宴会をするのが何よりの楽しみであった。

ところが、隣のアパートが立て替えをして、平らだった屋根が三角屋根になったせいで、その打ち上げの場所が見えなくなってしまったのだ。たった1mぐらいの高さなのだが、それで見えなくなってしまった。勿論、花火は上に上がるので見えるし、非常階段に出れば大丈夫なのだが、家からは打ち上げ場所は見えなくなってしまった。

さらに、リビングの出窓のところから見える、公園の桜の木が、なぜか知らないが根元からバッサリと切られてしまっていた。

山桜で少し時機を送らせて満開になってくれるこの桜を、私は自主的にライトアップしてマンションのみなさんに楽しんでもらっていたのだったが、これもバッサリであった。

かなりショックである。
勿論、この二つがなくなっても、このマンションの良さには何も影響はない。いま借り手が入れ替わっていて、開いているがすぐにまた借り手もつくはずだ。

が、小さな変化でこんなにも心が違うのかと思った。

(ああ、そうか。そういうことか)

私は、陸蒸気に乗るときに草履を忘れたオバアさんのことを思い出した。

私は五年前に京都に職を得て、滋賀の琵琶湖の畔に家を求めた。そうなのだ。私の「陸蒸気」は、動き出したのだ。

確かに、聖蹟桜ヶ丘の家は、そこにある。しかし、五年前に見た光景を求めても、それは無理なのだ。「草履」は求めても、手に入れることは出来ないのだ。

あのオバアさんを笑うことは簡単。しかし、小学生のときに笑いきれなかったのは、そこに、実は人間の業を見ていたのかもしれない。ただ、それは幼すぎて言語化できなかったのだろう。

「さて、私の草履はどこにいったかね?」

もちろん、今は私の「草履」がどこにあるのか、分かる。

印象 日の出

で、東京に向かう日の朝、いつものように朝を撮影した。その写真をネットに公開したら、コメントを頂いた。

「モネの、『印象 日の出』です!」

と。

ああ、そうか。
どこかで見た構図、色遣いだなあと思っていたら、モネだったか。

いかがであろうか。
確かに似ているかもしれない。

Img_1071

Img_1248

琵琶湖、なかなかやるわい(^^)。

赤富士

12/29

486キロを駆け抜けて東京に戻って来た。高速道路は、西に行く道は渋滞。東に行くのは、ほとんど渋滞なし。

ではあるが、いろいろとトラブルがありながらの帰省。本当は明るいうちに到着の予定だったが、暗くなってしまった。

ところが、その暗くなることが次のプレゼントを用意してくれていたとは。

途中、東名高速道路の富士川SAで美しいものを写真に納めることができた。「赤富士」である。静岡県内に入って富士山が見えるようになって、

(うわあ、間に合うか?)

と思いながら運転をしていた。赤富士のタイミングは非常に限られている。ほんの数分で消えてしまうはずだからだ。

だが、なんとか間に合った。iPhoneと一眼レフで撮りまくる。たくさんの荷物を積んだ325iなので、一眼レフを取り出すのに一苦労したのだが、なんとか間に合った。

時間にして10分あるかないかだったと思う。富士山の雪の部分を夕日が染めていて、夕日がだんだん沈むことによって富士山の赤の部分が空に逃げて行く時間は。

逃げる直前にカメラを構え始めて、撮り続けた。

6

トラブルに巻き込まれなかったら、あと数分遅れていたら、この光景を目に納めることは出来なかった。

偶然なのは分かっている。
だけど、ありがたいことだ。
一年の終わりにこんなプレゼントをもらえるなんて、感謝だ。

みなさま、良いお年をお迎えください。

7

2010/12/28

この幸せってやつを説明するのは、なかなか難しい。

12/27

Img_0972_2
(写真左から、比叡山、比良山、琵琶湖)

ここに来て娘(3)がグンと成長している。語彙が増えたこともある。「お父さん、寅年だよね」なんて突然言い出す。が、なんといっても「嘘」を付けるようになって来ている。

嘘は、現実をきちんと認識していないと出来ない。現実は何か。そして、それはどのような文脈の上に成り立っているのかを理解できていないと、嘘はつけない。

勿論、まだその嘘はすぐにばれる嘘である。ひょっとしたら嘘をつくというよりは、単に失敗や恥ずかしいことを隠しているだけかもしれない。だが、それは凄いなあと思う。まだこの世に生まれて3年なのだから。

昨日娘はジャスコの玩具売り場で、自分が遊ぼうとして準備をしていた遊具を、横から入り込んで来た子に取られそうになり、不愉快な思いをしたらしい。その事を聞いた私は、お風呂でどんなことがあったのか、聞こうとした。

すると、
「◎◎ちゃん、知らない」
と答えるではないか。勿論、知っている。
『本当? 教えてくれる?』
と聞いたところ。しばらく経って
「お父さんには言われたくない」
と言うではないか。

おい、君は本当に3歳だよな。
13歳ではないよなf(^^;。

奥さんと「坂の上の雲」の話をしていた。
私は本で読んでいて、テレビはまだ見ていないのだが、ストーリーがだいたいいまどの辺りにあるのか分かる。それであれこれ話していた。
すると、

「まったく高級な話をしているねえ」

と娘。
いや、会話に加わりたいのは分かるが、そういう加わり方をするか?

『ぴっけやまのおならくらべ』が大好きな娘。単語の後に「ぷっ」という言葉を付けて話すのが楽しい。
「おとうさんが、ぷっ」
「ビールが、ぷっ」
「机が、ぷっ」
てな感じである。

そこで私も一緒にあれこれ「ぷっ」と付けて話す。
するとあるものに「ぷっ」と付けて話したところ、

「今のは面白くない」

と冷静に反応されてしまった。
ああ、関西の血がもう既にしっかりと流れている。

文字に興味を持っている娘。自分の知っている単語をカードに書いてほしいというお願いは続いている。

「狸」「鞠」辺りはまあ大丈夫。だけど「栗鼠」「蝙蝠」は辞書を見て。さらに「大猩猩」になると、まったくわからない。ちなみに、「大猩猩」は「だいしょうじょう」と読む。ゴリラのこと。

一枚一枚100円ショプで買って来たポストカードに、大きく書いてあげる。じっと見ている娘。すると、

「お父さん、字がうまいね」

との言葉。ま、確かに人様よりも多く字は練習しているけど、なんで上手いって分かるの?

ちなみに、娘は最初に覚えたひらがなは「し」。
「鹿のし!」と言って覚えている。
『そうだよ、でもね、幸せのしでもあるんだよ』
「幸せ?」
『そうだ、幸せ』
この幸せってのを説明するのは、なかなか難しい。

極めつけ。

「お父さん、たくさん食べていますか。お父さんいつも体に気をつけて元気でいてくださいね」

と食事の際に、私を見ながら話す。それでもって、体を擦り寄せてくる。たくさん怒ることもあるお父さんなのに。ううう。

この幸せってやつを説明するのは、なかなか難しい。

2010/12/27

授業を作る時の三つの観点

Img_0917

授業を作る時あれこれ考える。あれこれ考えるが、最近では目標を設定した後、以下の三つの観点で考えると良いのではないかと思い始めている。備忘録として、簡単に纏めてみる。

予め結論を述べれば、その三つの観点とは、

1)原則
2)実態
3)スタイル

である。

(1)子どもたちが授業で蹴躓いている時、その理由を問うとここに三つの理由があることがわかる。すなわち、a.つまらない b.分からない c.できないである。

そうだとすれば、原則は実に簡単である。a.つまらないを面白いに、 b.分からないを分かったに、 c.できないをできたに変える授業を作れば良いのである。これが原則だと考えている。

(2)もちろん、この原則を理解したら授業が出来るかと言えばそんなわけがない。次に押さえるのが、実態である。実態はこれも三つある。a.子ども b. 教師 c.環境 である。

とくに、aについては重要だ。子どもがどんな実態なのかを理解することなく、目標に向かって授業を進めても効果は殆どない。子どもの事実をしっかりと把握することだ。理解の程度、関心事などだ。ここがずれると良い教材が用意できない。これは5W1hを使いながら確認して行くのもいいだろう。

さらに、b.に関しては教師である自分が出来ること、好きなこと、得意なことも理解しておく必要があるし、c.実践の現場がどんな環境にあるのか、学年教員集団、職員室、地域社会なども視野に入れておく必要がある。

(3)そして、授業の方法である。通常授業のスタイルも三つあると考えられる。a.講義 b.問答 c.ワークショップである。一つのテーマを扱う時、この三つのうちのどのスタイルが一番適しているのかを考える。1時間の授業全体をa.で行く。または部分でa.b使い分けるなど考える。

ご案内のように、授業中の指導言には イ.説明 ロ.発問 ハ.指示の三つがあって上記のa.講義 b.問答 c.ワークショップと相性がいい。もちろん、a.b.c.のそれぞれにイ.ロ.ハ.は同時に使うこともあるのだが。

この三つの観点を頭に入れながら授業を作る。作りながら確認し、作った後確認するといんんじゃないかと思っている。いかがであろうか。

2010/12/26

つまらないものですがとバージョンアップの思想

Img_0899

「♪つまらないものですが、受け取ってください」
「つまらないものでは、受け取れません」
「その日小池さんは笑っていたけど、次の日ゴミ置き場を見て泣いていた」

というのは、所ジョージさんの名曲「春二番」の一節である。もちろん、日本人がよく使う「つまらないもの」は、自分では一番いいものをと思って選びましたが、受け取るあなたから見たらつまらないものかもしれません。そうでしたらすみませんという意味である。

この「つまらないものですが」というのは日本人のメンタリティをよく表しているなあと思うのだ。提出する側はとにかく最前のものを作り、完璧なものを提出するという発想だ。そして、その結果において相手にさらに申し訳ないかもと思っている。

私が興味を持つのは、提出するときは100%のものを出すというメンタリティの部分である。つまり完成品を出す。そうでないものは不十分なものであり、相手に失礼であるという部分である。何せ、その上でまだ相手のことを思うぐらいだからね。

日本人が質問が下手なのは、実はこのメンタリティも関連しているんじゃないかなと思う部分もある。相手が完璧なものとして出している意見について、質問してあら探しするなんて「失礼」という思いだ。

そんな日本で、この発想を根底から揺すぶったのが、コンピュータのソフトであろう。OSでもいい、ワープロソフトでも良い。ここにはバージョンアップという思想がある。これは現状のものが100%という考え方とはちょっと違うように思える。

つまり、(これは、ま、現状では完璧だと思うけど、さらにもっと良くなるかんね。いまでは良いってことだからね)ということを示している。もっと言ってしまえば、(間違いはあると思うよ。使ってみて。おかしかったら言って。直すから)というようにも思える。

この発想は、日本人の考え方からすると、大変「失礼」なのではないだろうか。だが、この考え方がコンピュータの普及とともに一般的になってきたとき、日本人のメンタリティも変わってきたかなあと少し感じている。

学校教育に引き寄せて言えば、教材開発も、学級のルールも、完璧でない教材、クラスの指導方針などは出すべきではないという変な暗黙の了解があったように思うが、これが薄れてきたのではないかと感じる。

少なくとも私は、何が何でも100%でなければならないという呪縛からは解放されてきている。ちょっと楽になった。ーま、人様は私のことを(え、呪縛されていたの?)と思われるだろうがf(^^;ー 現状の100%でいいと社会が認識し始めたので。

これから日本は少しずつ、「もしつまらないものでしたら、どこがつまらないか言ってね。お願いします」ぐらいになって行くのだろうか? ちょっと楽しみ。

教師は、頑張らなければダメだが、頑張れないときに守られるシステムがほしい

12/26

Img_0549

ニュースはそもそも明るいもの等ほとんどないのだが、教育に関わっても同じだ。
現状を変えなければならない。

引用開始 ーーーーーーーーーー

公立校教員:精神疾患で休職5458人 17年連続の増加--09年度

 09年度にうつ病などの精神疾患で休職した公立学校の教員が過去最多の5458人に上ることが文部科学省の調査で分かった。17年連続の増加で、00年度(2262人)の2・4倍。病気休職者に占める割合も63・3%で15年連続の増加。文科省は08年、教員の仕事量についての調査、検討を都道府県教育委員会に通知したが、増加に歯止めがかからず、「長時間労働や保護者からの要望の多様化など、複数の原因が絡み合っていると推測される」と分析した。【篠原成行】

 全国の公立小中高や特別支援学校の教員約91万6000人を対象に調査。病気休職は8627人で、うち精神疾患が5458人といずれも過去最多となった。精神疾患の多くはうつ病とみられ、パニック障害や統合失調症も含まれるという。

 精神疾患者の年代別内訳は20代364人(6・7%)、30代1048人(19・2%)、40代1926人(35・3%)、50代以上2120人(38・8%)。全教員の年代の比率は20代9・6%、30代22・4%、40代36%、50代以上32%であることから、50代以上の割合が高かった。

 文科省は「職責が重くなることに加え、体力の低下から自信をなくす例が多かった」と説明した。発症原因は(1)長時間労働(2)多様化する保護者の要望への対応(3)複雑化する児童、生徒指導(4)職場の人間関係--など。

 文科省は増加する精神疾患対策として、08年に教員の事務負担を軽減するための実態調査を行うよう各教委に通知を出したが、今回の調査では市区町村教委の43・2%が調査をしていないことも判明した。文科省は「この結果を教委に戻し、調査をするように呼びかける」としている。

 ◇懲戒処分943人、前年度比116人減
 調査では教員の懲戒処分などについてもまとめた。

 何らかの処分を受けた教員は計7981人(監督責任を除く)で、08年度より3961人増。このうち免職、停職、減給、戒告の懲戒処分は943人で、08年度より116人減った。全体の処分者数が大幅に増えたのは、兵庫県で3624人(学力検査の集計、採点ミス)、神奈川県で130人(PTA会費の引き落としミス)の大量処分があったため。

 主な処分理由は、飲酒運転を含む交通事故378人(08年度比44人減)▽体罰150人(同10人増)▽わいせつ行為等138人(同22人減)など。わいせつ行為などで処分を受けた教員(懲戒処分以外も含む)の年代別内訳は、20代26人(17%)、30代38人(24・8%)、40代51人(33・4%)、50代以上38人(24・8%)で、全教員の構成比率に比べると20代の処分者の割合が高かったが、文部科学省は「なぜ高いのかは分析できていない」とした。]

http://mainichi.jp/life/today/news/20101225ddm012040021000c.html 毎日新聞 2010年12月25日 東京朝刊 より
引用終了 ーーーーーーーーーー

ざっと読んで、さらに読んで驚く。頭に来る。

「文科省は増加する精神疾患対策として、08年に教員の事務負担を軽減するための実態調査を行うよう各教委に通知を出したが、今回の調査では市区町村教委の43・2%が調査をしていないことも判明した。」

忙しすぎて調査も出来ないのか、また別の理由か。

「09年度にうつ病などの精神疾患で休職した公立学校の教員が過去最多の5458人に上ることが文部科学省の調査で分かった。17年連続の増加で、00年度(2262人)の2・4倍。」

ちょっと待て。17年間なにしてるんだ? 見殺しか? これ子どものいじめや不登校だったら大問題だ。教員だと良いのか? 指導の数値目標を上げよと現場は言われているのに、なんでこんなんなの?

文科省の中に担当部署はあるのだろうか? 現場にいるときに「どうせ俺たちはティッシュペーパーだよな。使い捨てだもんな」と自虐的に仲間たちと笑っていたが、笑っている場合ではないなあ。未必の故意とまではいわないけど、これ不作為に該当するんじゃないか。

こういうニュースが出ると、分析がされておしまいということばかり。分析はもういいから効果的な対策をしっかりと立てなければならない。

しかし、効果的な対策ではなく多くの場合、個人の問題にしておしまいとなることばかりだ。教員の資質向上を図るとかである。

だがそもそも「教員の資質向上が大事」という言い方は、私にはよく分からない。資質とは「生まれつきの性質や才能。資性。天性。」(大辞林)である。人として生まれる前の親の教育をするのか? 親がうまくいったとして(?)教師にぴったりの資質ってあるのか?

生まれつきで仕事が規定されるなんて、そもそも教育の否定である。場合によっては差別じゃないか? 例えメタファにしてもおかしいだろう。

問題は個人にあるとばかりに、研修研修と教員は追い立てられる。免許法も改正されて大学院に行くことが必須の方向になっている。確かに研修は必要だし、大学院で学ぶことも意味があることだと思う。(ちなみに、研修は研究と修養だが、修養は無視され続けている)

が、同時にシステムとして教師を守り、育てるという部分がなければまだまだこの混乱は続く。社会の混乱から発生する問題を、一個人が解決する問題として扱うのは、無理である。

教師は、自らの意志で自らの力量を高めようと努力を重ねるべきである。一生勉強を続けるものである。そのために、研修の機会は用意されるべきだし、自腹を切って研究会へも参加すべきだと思う。

しかし、その一方で、問題が起きたときに、その教師個人だけの問題として終わらせてはダメだ。教師を守り、育てるシステムの構築がなければ、学校教育現場の混乱は続く。

教師は、頑張らなければダメだが、頑張れないときに守られるシステムがほしい。

« 2010年12月19日 - 2010年12月25日 | トップページ | 2011年1月2日 - 2011年1月8日 »