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2011/03/22

卒論指導についてあれこれ考えている。

3/22

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(高度8000mの日の出)

卒論指導についてあれこれ考えている。
新年度は、一週間後に始まる。

卒論の肝は、問いである。
というか、論文の肝は問いである。

良質な問いが手に入れば、論文になる。
入らなければ、論文にならない。

良質な問いとは、

1)誰もが解いたことのない問い。
2)論文を書こうとする者に解ける問い。

と私は考えている。

では、この問いはどのように手に入れることが出来るのであろうか。私からすれば、学生達にどのように手に入れさせることが出来るであろうかということになる。

おそらく、次のような流れになるであろう。

違和感 → 疑問 → 問い 

である。

口語で言えば、

ん? → 本当? → なぜ? 

である。これは直感、勉強、学問に対応すると思われる。ということは、直感を鍛えることが良質の問いを手に入れる最良の方法となるはずだ。

では、直感を鍛える為にはどうしたらいいのだろうか。
一つには、良質な問いの構造を見てみるということだろうか。言い方を変えれば、どうやってこの問いが生まれたのかを見てみる。つまり、

問い → 疑問 → 違和感 

という流れで見てみるというのはあるかもしれない。
こういう研究をしている人はいるのかなあ。おそらく、人物伝、伝記などを丁寧に確認して行けば、エピソードとして出てくるのだろうなと思う。漫画で言えば、

『栄光なき天才たち』
『絶望に効くクスリ』
『寄せ芸人伝』

なんかを読むのが良いんだろうな。というか、私は読んでいてかなりインスピレーションを得ていると思うな。

それから、『雨月物語』の中に出てくるこのフレーズ。

江月照松風吹 永夜清宵何所為

これも示唆に富んでいるなと思う。
理由とは関係なく、存在するということ。これを認めた上で、その存在の中に何を見いだすか。

うーむ、禅の世界になって来た。

さらに、私がやってきたことは何かと言えば、セレンディピティだな。
「発見は、準備された実験室の失敗の中に見いだされる」
のような言葉があったと思う。

私の場合は、教育実践現場なので実験室というのは当てはめにくいが、子どもたちの現実に振り回されながらもそこから逃げ出さずに、勉強を続けて実践を続けていると、ふと、出会うアイディア、ヒントがある。これに導かれてさらに実践を重ねてということの繰り返しであったように思う。

そのアイディア、ヒントを得る為に何かをしていたというものではないのだが、結果的に得ているということだ。私の修士論文のアイディアもこのようにして手に入れた。

四月の三回生、四回生ゼミではこの辺りを丁寧に話すことから始めて見るか。

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