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2011/04/03

1100年に続く、新しい一年を始めようと思う

4/3

「石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」

志貴皇子の万葉集の名歌だ。
旧暦の一月を迎えるとこの歌をつい口に運びたくなる。春の兆しをこんなところに見つけようとしているのかと、古人の切ない気持ちがこんなにも現れている歌はなかなかないなあと、中学生のときにこの歌を教わってからずっと思っている。

今日は、旧暦の三月一日。弥生朔日である。
春は孟・仲・季と三つあり、いよいよ季春となったのだ。
大学のキャンパスでは梅の花が散り始め、ユキヤナギが満開になり、ソメイヨシノが咲き始めている。
そんな季節の移ろいの中にいる。

『月刊 国語教育研究』(2011/4)に知人の山下直先生が「国語総合における古典の学習指導の観点」という論文を書かれている。ああ、そうだったなあと思い出した。古今和歌集の春の部に出てくる花の順番である。

24pから引用開始 ーーーーーーーーーー

これらの語を歌の配列順に見て行くと、おおよそ「雪→若葉→梅→桜→花→藤・山吹」の順で出現している。まだ春が待ち遠しいころが「雪」、春の訪れが「若菜」摘みや「梅」の香り、春の盛りが「桜」や種々の「花」が咲き誇る姿で示され、それらが散ってゆく姿に春の移ろいを見、「藤」「山吹」を経て春の終わり告げる歌群へと繋がっている。

引用終了 ーーーーーーーーーー

私たちはこの1100年の間こうして、季節の移ろいを日常生活の中に感じながら生きて来たのだ。 いや、寧ろ季節の移ろいが、花の移り変わりが私たちの心持ちを変えて来たと言う方が正しいのかもしれない。

今日、娘が公園で遊びたいと言うので長良公園まで出かけて行った。実は桜の名所のこの公園、少しぐらいか活かしているかと期待して出かけた。

しかし、この公園の桜は気持ちのよいぐらい、一つも咲いていなかった。つぼみは、磯にくっついている「亀の手」のようになっていて、誰かが号令をかければ一斉に開花すると言う感じになっていた。

この開花のエネルギーが充満している公園には、ほとんど誰もいなかった。遊具で遊ぶ娘とその写真を撮りながら、桜のつぼみを確かめる私、そして犬の散歩に来ている人ぐらいであった。

だが、私たちは知っている。
いったん開花するやいなや、この公園は人で溢れる。
新しい一年が始まることを私たちは、この桜の開花で、改めて知る。

「世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」

在原業平の名歌だ。
桜が咲くことで、咲く桜を待つことで、散る桜を追いかけることで、私たちは心を震わせ、奮わせ、新しい一年に向かって一歩を踏み出そうとして来たのである。山桜からソメイヨシノに変わったとしても、1100年間私たちはして来たのだ。

被災地の現場の凄さが、今まで以上に様々なメディアで報じられ始めた。目を覆いたくなる姿がそこにはある。

だが、そこにも桜は咲くであろう。
そして、私たちは1100年の間にあったさまざまな悲しみを思い起こしつつ、桜の花の美しさに、再び力を得て来た古人がいたであろうことを思うのだ。

こんな時だからこそ、桜を愛でようと思う。
私たちの住むこの国は、桜で新しい一年を始めて来たのだと思う。

長良公園の帰りに道に立ち寄った比叡山の麓には、早咲きの枝垂れ桜が五部咲きになっていた。
1100年に続く、新しい一年を始めようと思う。

Sidare


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