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2011/04/30

私の風邪はまだまだ治らないが、娘に癒されて気分はいい

4/29

昨日三つ目の公園に行ったときの事である。
1歳のときから行っている娘は、あれこれ考えいたようである。見ていたようである。

遊具の一つにずっと興味を持っていた娘である。
その遊具に年上の子どもたちがよじ登るのを見ていたのであろう。そして、何回か自分もやっていた。が、できないでいたのでる。

だが、ついこの間出来るようになったのであった。

「見てみて!」

ということで、娘が遊具によじ登り、自慢のアクティビティを私に見せようとしたときである。勢いがつきすぎてバランスがずれてしまったのである。そして、地面に落ちてしまったのだ。体を擦りむいて泣き出してしまった。

バランス感覚が結構いい娘にしては非常に珍しい。少なくとも、私の目の前で遊具から落ちたことは一度もない。抱き上げて大丈夫大丈夫と体をさする。幸いにして怪我は大したことがない。

その後、泣き止んだ娘を見ていたら、なんとすぐに再挑戦しているではないか。いやあ、それだけで感動。怯むことなく、もう一度挑戦なのである。

学校で子どもたちを教育する時、このことがとても大事だと思っている。失敗したらその失敗で終わらせないこと。成功体験で終わらせること。ここが大事である。だから、授業の中での発表等でも先ずは予行をして、小さな失敗を見つけ、その失敗を改善することで成功体験で終わらせるようにしているぐらいである。

失敗のままで終わらせない。もう一度やらせる。ところがこれがなかなか難しい。失敗でビビってしまってもう一度やらない子どもが多いのである。もう一度やらせるのが大変なのである。そして、その先の成功に導くのも。

ところが、娘は勝手にやっている。そして、見事に成功するのである。
いやあ、驚き。そして、嬉しい父の私。

ところが、娘は不機嫌な顔をしているのである。え、なんで?
理由を聞いてみた。そして、私は笑いそうになってしまった。なんと娘は、再挑戦で出来たことで嬉しいのではなく、一回失敗してしまったことが納得いかないのであった。

『一回出来なかったのが悔しいの?』
「うん」

とのことであった。
ははは、さすが私の娘である。

その後、三回連続で成功させてやっと満足した娘であった。

GW初日。
私の風邪はまだまだ治らないが、娘に癒されて気分はいい。

2011/04/27

撮影後の娘は少し機嫌の悪い顔

4/27

入園祝いの写真を当日に写真館で撮影できなかった。午後から私が大学で授業があったので。
そんなこともあって、先日写真館で撮影をして来た。

娘(3)は、これまで何回か写真館で撮影をしている。お宮参り、七五三である。そのときは、寝続け、泣き続けであってまともに写真を撮ることができなかった。

今回は何をしでかしてくれるのかと、楽しみにしながら写真館に向かった。

撮影は、殊の外順調に進んだ。
写真館のお姉さんには、
「練習して来たの?」
と言われるぐらい。そして、可愛い写真が沢山撮れた。
父は大満足である。

ところが、撮影後の娘は少し機嫌の悪い顔。
『どうしたの?』
と聞いたら
「クイズ一つ出来なかった...」
と言うのである。
『何?』
と聞くと、次のようなことであった。

写真を撮影する時、カメラの上に扇子の裏表に、いろいろなキャラクターの絵を描いたものをカメラマンは置いていた。そして、
「これ、なーんだ」
と言ってひっくり返し、子どもを集中させて笑顔を作っていた。
(なるほど、上手いことやるねえ)
と私は感心していたのだが、娘は違った。
真剣に考えていたのだ。
アンパンマン、ミッキー、バイキンマン、メロンパンマン、プーさん...。

そして、一つだけ答えることの出来なかったキャラクターがあったのだ。
それが写真撮影後も、それが悔しくてそんな顔をしていたのだ。

父は、もう、ぎゅーっと抱きしめたのであった。

2011/04/25

【講座案内】明日の教室 5/14 有田和正先生

以下のアドレスでご案内しています。
有田和正先生の講座は、関西では中々受けられないと思います。

http://kokucheese.com/event/index/10559/

ふるってご参加ください。

明日の教室 隂山英男先生

4/25

縁がありつつも、なかなか会えそうで会えない人と言うものがいるものだ。私にとって隂山英男先生というのは、そのお一人であった。あったというのは、明日の教室でお招きすることができて、お会いできたからである。

隂山先生と名刺交換をして少し話したところ、先生も
「池田先生とは初めて会った気がしないんですよね」
と言われた。

NHK教育テレビ「伝える極意」の番組制作委員を先生がされて、私が出演すると言うことで一つの番組を通して関わって来たわけなのだ。で、この土曜日に初めてお会いしたと言うことである。


前半は模擬授業、後半は世界の学校の現状と、脳科学と、勉強の仕方、授業の作り方などに付いて。あれこれとても納得する話であった。

この講座の後半については、『若き教師のための授業学 学力を伸ばす学級づくり』(日本標準)に詳しく書かれている。お勧めである。

講座で話を伺いながら私が思ったことは、

(やっぱり早口で授業ってのは、大事だな)
(やっぱりノートを取らせることは、大事だな)
(やっぱり若いうちに大きな失敗をするってことは、大事だな)

ということである。

勿論、機能的に聞く力が弱い学習者などもいるので配慮無しにはやれないが、早口での授業は大事だ。ゆっくり丁寧に話すと言うことは、子どもの処理能力を高めることに繋がらない。また、集中して話を聞くことにならない。

隂山先生はかなり早口で授業をする。感覚としては、一分間に420字ぐらいのスピードで話をされていた。講座の後に確認したらご本人も意識しているとのこと。

話を聞きながらノートを取るのはなぜか。私は授業であれこれ話をしているが、隂山先生の実験によると、単に話を聞いているだけでは、脳が働かないというのである。

講演会に行ってノートを取る。でも、家に帰って見直すことはほとんどない。でも、ノートを取る。これは、なぜか? ノートを取りながら話を聞くことで頭に入るのである。

日本語は、表意文字の漢字を使うので漢字を使いながらメモを取ると、イメージを喚起しながら記憶に訴えかけるのではないかと私は思っている。

短期記憶は、側頭葉から海馬へと情報は伝わり、夢などで整理されつつ前頭前野の長期記憶へと変化して行くと考えられている。そしてその長期記憶に移る前に、イメージを司る脳の部分を通過するのだそうだ。

これらの情報伝達の流れの回路を、鍛える。これが学習である。
隂山先生によれば、易しい問題を何回もやってスピードを上げること。これが大事だと言うのだ。だから百ます計算ということなのだ。

で、百ます計算に辿り着く前に大きな失敗があったことも話されていた。その失敗があって、岸本先生のところに辿り着いたのだ。

「努力してもダメというのは、ダメ。努力してもダメなのは、努力の方法が違うのです。努力は実るものを言います」

そうだと思う。
ただ、これが分かる為には、若いうちに「努力」してダメだったと言う経験を持つことが大事。

明日の教室に来てくださる先生方の共通項は、この若いうちにあれこれやって失敗しているということがあるように思う。理想を目指してあれこれやっているのだ。あれこれやって失敗している。つまり、努力の方法が間違っていたのだ。しかし、理想は諦めず、うりゃやややややああああとあれこれやって、結果を出しているのだ。

失敗はしてもいいのである。いや、理想が高い人ほど失敗はすると思う。20代そこそこでやること全てうまく行く人は、その人に実力があるのではなくて、理想が低いのである。

理想は掲げたまま、自分を改善しているのである。実力を付けているのである。10年、20年という努力を重ねているのである。

そんな先生方の話を2000〜3000円で聞けるなんて、明日の教室は安いなあf(^^;。

『先生が最終的に目指しているものはなんですか?』
質疑の最後に、私は質問をした。
先生は、考え込まれた。
「うーん、わかんないなあ」
『では、そのことを次回、よろしくお願いいたします』

ということで再登壇の約束を公開でしていただきました(^^)。
これもお楽しみに。

次回は、5/14(土)有田和正先生です!

2011/04/22

仁和寺 御室桜

4/22

今年も京都の桜を愛でて回った。四月は新年度なのでそれはどこでも忙しい。大学でも兎に角忙しい。しかし、今年の桜は今年しか咲かない。だから、愛でたい。

桜は、見てあげなければ美しくならない。これは子どもと同じだろう。子どもも見つめ続けなければ、しっかりと育たない。だから、(何がだからなのか、今ひとつ繋がっていないが)桜を愛でて飛び回った。

この春、最後の桜は、仁和寺の御室桜だ。

仁和寺と言えば、国語関係者は兼好法師の『徒然草』をすぐに思い浮かべるだろう。52段である。

引用開始 ーーーーーーーーーー

仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩より詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。

さて、かたへの人にあひて、「年比思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。

少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。

引用終了 ーーーーーーーーーー

(仁和寺ってそうとうアホなお坊さんがいるんだなあ)
と思っていた子どもの時代の私。しかし、これは寧ろ逆なんだろうなあと思う。今風に言えば、京都大学の先生にも関わらずおかしな奴がいるなあって感じだろう。

その当時の学問の最高峰であった仁和寺のお坊さんなのに、こんな間違いまでしてしまうんだなあという感じだろうか。

嘗て、私は仁和寺よりも、仁和寺から石清水八幡宮までいくにはどのぐらい掛かるのかが知りたかった。そして、極楽寺と高良(神社)を確認したいと思って、仁和寺をスタートにして、石清水八幡宮まで車で移動したことがある。

車でも結構な距離なのに、歩いたら凄いんだろうなあと思ったものだ。「年寄るまで」ってことは老人だろうしなあと。(今Googleで調べたら、歩けば4時間ですね。便利だ)

で、私は仁和寺に入ることなく、ただ石清水八幡宮に移動して、極楽寺と高良(神社)を確認して、「山」を上ったので、仁和寺は今回が初めての体験。

これが凄かった。
江戸時代から続くと言う御室桜。200本を越えるこの桜の林。サトザクラの一種で、八重のぼってりとした薄紫色の桜であった。

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桜はバラ科でありながら、香ることがない。

と思っていたのだが、この御室桜はかすかに香るのである。その香りに導かれて桜の林の中を歩く。観音堂や五重塔と一緒に収まるその桜の姿は、本当に見事一言。

Photo

京都の桜は、この仁和寺の御室桜でフィナーレを飾ると言われるが、わかるわかる。

閉園の17:30までじっくりと、この春の桜のフィナーレを楽しませてもらった。

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とは言うものの、あと、大学のサトザクラと比叡山の桜も楽しもうとする私であったf(^^;。

2011/04/20

伝える極意 再放送 4/21と4/28

明日から再放送が再び始まります。五回目かなあf(^^;。ありがたいことです。
良かったらご覧下さい。

NHKから連絡がありました。

「伝える極意」第2回、放送のお知らせです。
周りの方にも紹介して下さい。
よろしくお願いします。

「1分間で思いを伝える~スピーチ~」
本放送:平成23年4月21日(木) 9:55~10:10 NHK教育テレビ
再放送:平成23年4月28日(木) 9:55~10:10 NHK教育テレビ

○内容
小学校の朝の時間などでよく行われる1分間スピーチ。
「話す内容が見つからない!」と困ったことはありませんか?
今回、スピーチの極意を教えてくれるのは、
学校の先生を目指す大学生に授業のやり方を教えている
京都橘大学准教授の池田修さんです。
番組は、どうしても話すことが見つからなかった男の子と
出会うところから始まります。
池田流の極意で、男の子は、話したいことをすぐに見つけ出します。

○池田流スピーチの極意
・頭の中の材料を出す
・聞く人を意識する
・書き方に悩んだらパターンを使う
・練習は自信を生む「伝える極意」第1回の放送のお知らせです。
周りの方にも紹介して下さい。
よろしくお願いします。

○感想やご意見をお聞かせ下さい。送り先は2つあります。
1)番組ホームページ
 http://www.nhk.or.jp/gokui/のご意見・お問い合わせへ
2)NHKのホームページ
 http://www.nhk.or.jp/css/goiken/index.htmlにアクセスし、
「メールでのご意見・お問い合わせ」の「メールフォームはこちらへ」から書き込んで下さい。

頂いた感想やご意見は、番組の作りにどんどん活かしていきたいと思っています。
よろしくお願いします。

※この番組は、インターネットでご覧頂けます。
 番組ホームページhttp://www.nhk.or.jp/gokui/の「番組をみる」をクリックしてください。

よろしくお願いいたします。

2011/04/19

その事象はもう一つの顔を見せる

4/19

Sakura

桜吹雪。

美しい日本語をあげよと言われれば、この言葉を挙げるだろう。桜と吹雪は季節の違う言葉である。この二つの言葉が複合語となって一つの言葉になっている。本来出合うことのない言葉が出合っている。別の言い方をすれば、単語そのものが俳句で言う所の「二物衝突」をしているのだ。つまり、単語そのものが俳句ということがいえるかもしれない。

この強い風を伴った雨で、京都のソメイヨシノはどんどん散ってしまった。

「サヨナラ」ダケガ人生ダ

井伏鱒二は「勧酒」の一節を訳したが、桜の散り際、桜吹雪の中に立っているとあれこれ思うのである。

嘗て、東京にいた時に伊豆半島に出かけたときのことである。
干物のお土産を物色していたときに、見かけない干物を見つけたビーフジャーキーの大きな感じの干物である。

ビーフジャーキーが海産物のお土産コーナーにあるというのは変である。なんであろうかと尋ねてみた。すると、それはイルカの肉の干物だと言うのだ。勿論味見をする。美味しい。

「そうなんだよねえ。可愛いんだけど、美味しいんだよね」

と店の人は言うのである。

今年の桜は、美しく見える。
それは、開花の直前にぐっと寒かったからと言われている。そうかもしれない。この、寒さとの対比が美しさを生み出しているのかもしれない。

だが、やはり震災であろう。

震災の悲しみが、この桜そのものの切なさを揺さぶっている。そして、桜の美しさを「支えて」いるように思えてならない。

一つの事象の中に、二つの相反する価値が含まれている時、そしてその表側の面の中にちらりと裏側の面が見える時、その事象はもう一つの顔を見せる。


2011/04/18

春の日を娘(3)と過ごす

4/18

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(上賀茂神社の斎王桜)

春の日を娘(3)と過ごす。

娘は、おかあさんが大好きで何かと言うと「おかあさんが」と言って私ではなくお母さんを求める。機嫌のいいときと、用事のあるときだけ私にスリスリしてくる。うーむ、とても3歳とは思えないのである。

最近の娘とのあれこれ。

朝、チョコレートドリンクを飲み残した娘。

『ちゃんと飲みきりなさい』と言うと、
「とっておいて」と。
『じゃあ、おひな様に飲んでもらうか?』
まだ飾られているおひな様に向かって言う。
「うーん、でも折角綺麗な唇なのに、チョコレートが付いてしまうからお願いしない」と。

事情を知らないお母さんが飲みました。

ひらがなをマスターした娘は、次のターゲットとしてカタカナを選んだようだ。
「カタカナのお勉強のプリント作って!」
と懇願する。そりゃまあ作りますけど。その道のプロですから。娘専用のオリジナルのプリントを作りますぜ。

本人は文字が読めるのが楽しくて仕方がないようだ。
書き順なんて無茶苦茶で、うわああという字もあるが、好き放題に書かせている。

そうだよな、楽しいんだよな、新しいこと知るってのは、本来。

お雛様を片付けさせない娘。どうしようかと、作戦を練る。ひらがなが読めるようになったので、お雛様から娘へのお手紙を書くことにした。
「お雛様の国に帰るので、お母さんと一緒に片付けてね」と。
この手紙を朝書いて、お雛様の横に置く。さ、この作戦が功を奏するか?

お雛様からの手紙を読んだ娘は、泣いてしまったf(^^;。

が、その日の午後、意を決して
「お片付けする!」
とお雛様と暫くのさよならをしました。

桜の花びらを手提げの紙袋にいっぱい拾って来て娘にプレゼント。「吹雪!」と言って遊んでいる。外でばら撒いても風流な「ゴミ」にしかならないのが良い。春爛漫である。

桜吹雪が気に入った娘は、「吹雪しながら、ご飯食べたい」と言い始める。おままごとを設定して、私は桜吹雪役。娘は、美味しそうに自分で「料理」したものを「食べる」。春爛漫である。

午後からディベートの入門講座があるなんて、信じられない私であった。

娘の描いた絵や文字がだんだん溜まって来た。これをスキャンスナップでPDFにして保存する。保存すれば、元の絵はさよならしても良いはずだが、それができない。なんのためのスキャンスナップ化かと思うが、できない。

まったく娘ってのは、父親にとってはたまらんなあf(^^;。

2011/04/14

一つ、咲いた、チューリップの花が♪

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少し花粉の症状が良くなったのが嬉しくなって、朝のハンモックを楽しむ。

『一緒に乗るか?』
と早起きしてきた娘(3)に聞く。
機嫌の良い娘は、
「うん!」
と言って一緒にハンモックに乗る。

何が嬉しいと言って、娘と一緒に乗るハンモックほど嬉しいものはない。ゴロゴロ、ゆらゆらしながら暫し、朝の贅沢な時間を過ごす。

ハンモックを降りて庭木に水をやる。
すると
「あ、チューリップ!」
と娘が叫ぶ。
パンジーと一緒に寄せ植えをしてあったチューリップが一つ咲いたのだ。

当然、娘と一緒に歌う。
『咲いた、咲いた、チューリップの花が。並んだ、並んだ、・・・。あれ、並んでないね。一つだね』
と言うと、少し考えた娘。
「咲いた、咲いた、チューリップの花が。一つ、咲いた、チューリップの花が♪」
と歌うではないか。

我が娘ながら、凄いと思う。
文脈を読んで、さっと修正することのできる力って凄いなあと思うのだ。

春爛漫である。

宵宮落し神事  近江坂本 日吉大社山王祭

4/14

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近江の人となって六年目になろうとしている。近江は、近江商人、近江米、近江牛などで有名である。ま、普通の人はこのぐらいのイメージであろう。私も東京にいるときは、これと琵琶湖ぐらいのイメージしかなかった。

ところが、住んでみるとびっくりするぐらい住みやすい。
街での買い物などは、流石に東京には負けるが、いいのだ。歴史がしっかりと息づいているのが分かるのだ。

昨晩は、比叡山の表玄関である、坂本にある日吉大社のお祭りに出かけて来た。山王祭である。日本中の山王神社の総元締の祭りである。日本屈指の勇祭と言われているものだ。なかなかタイミングが合わずに見ることができなかったのだが、満開の夜桜の中、見ることができた。

凄いの一言。
http://www6.ocn.ne.jp/~hiyoshi3/sannosai.htm
http://www6.ocn.ne.jp/~hiyoshi3/sannou_fes/sannou_festival.htm

私が見たのは、「宵宮落し神事」http://www6.ocn.ne.jp/~hiyoshi3/sannosai_s.htm#link6 祭りの山場だ。

この神事は、上賀茂神社の神様が生まれる所を再現していると言われている。特殊な台座に乗せられた四基の神輿が揺さぶられ、陣痛の様子を再現する。夜の坂本の町にどすんどすんという響く音が伝わる。また、松明を燃やした匂いが町を埋め尽くす。

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(四基の神輿が傾いているのが分かるであろうか?)

ここに戦国時代の装束に身を固めた者どもが、松明とともに祭場に走り込んで来て神輿に飛び乗る。さらに、獅子舞、祝詞の奏上とあった後、神輿は台座の上から地面に落とされるのである。出産、つまり神様の誕生なのである。

この落ちて来た神輿を下で担ぎ手が受け止めて、日吉大社の本殿に向けて800mほどの参道を駆け上る。四基の神輿は競い合うのである。私もその後について参道を駆け上った。

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まるで、ミュージカルであった。
こんなにストーリー性のはっきりしたお祭りは、なかなかない。見ているだけで、物凄い興奮であった。

近江の湖北は今は人が少ない。
私はそれが気に入っているのだが、嘗ては比叡山の表玄関としてかなり栄えたと思える。その美しい町並みが物語っている。

京都の美しさは言うまでもないが、実は、近江の美しさも侮れないのである。

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ちなみに、youtubeには、2009年のものがアップされている。
動画ではさらにその迫力が伝わるだろう。

http://www.youtube.com/watch?v=mL2xbZ_BVXs&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=io6EtFA-QfM&feature=related

2011/04/11

今日は娘の入園式

4/11

児童教育学科の新入生キャンプを終えて、一息。
今年のドラゴンボートレースでは、教員チームが念願の準優勝。ガチンコで勝負しての準優勝。ああ、嬉しい。入念に準備運動をしたお陰で、筋肉痛はその日から始まり三日目にはほぼ治ったし。

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どの学校もそうだろう。やはり児童、生徒、学生の顔を見ないと落ち着かない。彼ら彼女らの顔を見て、そこからイメージを膨らませ、授業や指導の具体的なあれこれを考えるのだ。

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週末は、京都の桜を追いかけた。
岡崎公園、疎水、高瀬川など。
どこもどこも、クレイジーな美しさであった。

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お気に入りのカフェで食事も出来たし、
桜を十分に味わった。

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さ、今日は娘の入園式。
なんか信じられない。
このところ、ひらがなに物凄い興味を示していて、もうほぼひらがなは読めてしまっています。春の勢いのようにどんどん伸びています。

大きな病気やけがをすることもなく、
意欲的で明るく健やかに能天気でひょうきんに育ってくれています。

全てのもの、人に感謝します。
ありがとうございます。

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2011/04/08

森のバッハ

http://www.wimp.com/ballbach/

こりゃあ、凄いや。
単純だけど、精密に作り上げないとできない。

メロディとリズムを知っているので、先は分かるのだが
その、微妙にずれるのもまたいい。

そして、素朴な奥行きがいい。

バッハもびっくりだろう。

宮城県教育委員会人事異動のその後 やっぱりダメだ

人事異動凍結を呼びかけたところ、みなさんに多くのご理解を頂いた。

教育委員会の言うように現場が動くのであれば、それはそうだと思う。が、現場の先生達は、そんなふうには動かない、動けないということを被災した学校現場(避難所)で判断し、困っていた訳である。これは、保護者や子どもたちを守る為にどうしても必要なことなのだ。

本学からも国から要請を受けて、災害現場に派遣された看護学部の先生達がいる。災害の現場で必死に看護に当たられた先生方には頭が下がる。また、滋賀県にある自衛隊も災害復興のために車を走らせて現場に駆けつけたようだ。他にも他にも色々なスペシャリストが現場で、命を救う為に、守る為に戦っている。

だが、敢えて教師の立場に立って、現場の先生方の口からは言いにくいことを言えば、上記のスペシャリスト達は、交代がある。ある一定の期間がくれば、別の人たちと交代できる。しかし、教師はその地域の人たちと生きて行く為、交代がないのだ。

3/11から、休みの日はない。
私なら、もうその現場から逃げ出して、余震のない、電気のある、水道のあるところに行きたいと思うし、行ってしまうかもしれない。

だが、私の仲間達は、それをせずに震災の現場に残って、子どもたちのために頑張ろうと声をあげた。が、そのための人事凍結をせずに、強行してしまったと言えるだろう。

次のブログを見てほしい。

http://d.hatena.ne.jp/fjhiro3/touch/20110407/1302154493

全てが正しいかどうかは、勿論分からない。
しかし、実態はこうなのではないかと思う。

これから、何が出来るのだろうか。
考える。

2011/04/07

新ジャガイモを買って来た

4/5

新ジャガイモを買って来た。
これを蒸して食べるのが好きだ。
塩さえも付けずに、ただ蒸して皮を剥いて食べるのが好きだ。
台所で皮に付いた土を洗い落として蒸す準備をしていた。

(そうか、そうか)

自分の未熟さが手の先から伝わって来た。

他人の痛みが分かる。
これが教育だ。
他人の痛みが分かると言うのは想像力の力、知性の力だ。

私たちは広島の、長崎の、チェルノブイリの、スリーマイル島の悲しみを痛みを知っていた筈だ。

それにも関わらず、その痛みを我がごととして引き受けようとはしてこなかったのだ。

彼の地では、このジャガイモの泥を洗う時、放射能のことを考えながら洗っていたことであろう。いや、洗うことすら出来なかったかもしれない。

私たちは、これからひょっとすると100年のオーダーで、ジャガイモを洗う度に、大丈夫だろうかと言う思いを胸に抱くことになる。その痛みをきちんと伝えて、教えて行くことの教育をしなければならない。

いや、今までだってして来た筈だ。
広島、長崎。
世界でも通用する言葉だ。
それを私たちは、
(ま、そうね)
と流して来たのだ。

自分のことにならないと分からないなんて、なんという未熟だ。
でも、ここからしか始まらない。

新ジャガイモを食べる為に、
そこについた土を何の気もなく洗い落とせる幸せ。
大地の恵みを感じられる幸せ。
失って分かるなんて、なんて未熟だ。

だけど、ここからしか始まらない。
取り戻すのだ。

2011/04/04

日常の生活を続けることも、大事な支援なのだ

4/4

自粛って何だと思う。

確かに、気持ちの上では分かる。私も、卒業式のあとのパーティのときに、先ずは義援金に募金してからだという思いになった。

だけど、花見をやめろとか、パーティをやめろと言うのは違うだろう。それは二次被害を生む。@Kusakabe_IONさんは、

引用開始 ーーーーーーーーーー

9.11の時は、わずか2ヶ月後にNYCマラソンを例年どおり開催。ジュリアーノ市長が「安易な自粛モードこそ危機、テロの2次被害だ。日常を取り戻そう」と呼びかけた。

引用終了 ーーーーーーーーーー

と呟いている。

大きなお金を使えと言うのではない。日常のお金を回すことが大事ということだ。大きなお金がある人はそれを上手く使ってほしいとは思う。だが、私のようにそうではない人は、今の生活をしつつ、買うものを東北産のものにするということで、かなり違うのではないかと思う。

次のビデオを見てほしい。

http://www.youtube.com/watch?v=hHucTlBohfg&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=UY0FtSqrMBc&feature=player_embedded

涙が出た。

東北にはおいしいお酒が多い。
私は、この「あさ開」は飲む。

また、福島の二本松には
「奥の松」
「大七」
などの美味しいお酒がある。友人のあべたか先生が

「二本松には美味しい日本酒があるんですよ」

と自慢していたその酒だ。自慢される前から飲んでいた私は、妙に褒められたものだ。

さらに「大七」は、次のようにもう既に対策を講じている。

そして、私はそれぞれの蔵に頑張ってくださいのメールを送った。
奥の松、E-mail / shop@okunomatsu.co.jp
大七、E-mail:info@daishichi.com

いつも楽しませてもらっている、お酒。
そのお酒を楽しもうと思う。

自粛しなければならんかなあと思う気持ちも、分からないではない。自粛で日本が立ち直るのであれば、それは自粛をしよう。

だが、過度な自粛は経済を疲弊させる。
日常の生活を続けることも、大事な支援なのだ。

京都/滋賀の桜は咲き始めました。
これから一ヶ月間、クレイジーな美しさを展開してくれます。
東北のお酒と一緒に見に来ませんか?


2011/04/03

1100年に続く、新しい一年を始めようと思う

4/3

「石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」

志貴皇子の万葉集の名歌だ。
旧暦の一月を迎えるとこの歌をつい口に運びたくなる。春の兆しをこんなところに見つけようとしているのかと、古人の切ない気持ちがこんなにも現れている歌はなかなかないなあと、中学生のときにこの歌を教わってからずっと思っている。

今日は、旧暦の三月一日。弥生朔日である。
春は孟・仲・季と三つあり、いよいよ季春となったのだ。
大学のキャンパスでは梅の花が散り始め、ユキヤナギが満開になり、ソメイヨシノが咲き始めている。
そんな季節の移ろいの中にいる。

『月刊 国語教育研究』(2011/4)に知人の山下直先生が「国語総合における古典の学習指導の観点」という論文を書かれている。ああ、そうだったなあと思い出した。古今和歌集の春の部に出てくる花の順番である。

24pから引用開始 ーーーーーーーーーー

これらの語を歌の配列順に見て行くと、おおよそ「雪→若葉→梅→桜→花→藤・山吹」の順で出現している。まだ春が待ち遠しいころが「雪」、春の訪れが「若菜」摘みや「梅」の香り、春の盛りが「桜」や種々の「花」が咲き誇る姿で示され、それらが散ってゆく姿に春の移ろいを見、「藤」「山吹」を経て春の終わり告げる歌群へと繋がっている。

引用終了 ーーーーーーーーーー

私たちはこの1100年の間こうして、季節の移ろいを日常生活の中に感じながら生きて来たのだ。 いや、寧ろ季節の移ろいが、花の移り変わりが私たちの心持ちを変えて来たと言う方が正しいのかもしれない。

今日、娘が公園で遊びたいと言うので長良公園まで出かけて行った。実は桜の名所のこの公園、少しぐらいか活かしているかと期待して出かけた。

しかし、この公園の桜は気持ちのよいぐらい、一つも咲いていなかった。つぼみは、磯にくっついている「亀の手」のようになっていて、誰かが号令をかければ一斉に開花すると言う感じになっていた。

この開花のエネルギーが充満している公園には、ほとんど誰もいなかった。遊具で遊ぶ娘とその写真を撮りながら、桜のつぼみを確かめる私、そして犬の散歩に来ている人ぐらいであった。

だが、私たちは知っている。
いったん開花するやいなや、この公園は人で溢れる。
新しい一年が始まることを私たちは、この桜の開花で、改めて知る。

「世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」

在原業平の名歌だ。
桜が咲くことで、咲く桜を待つことで、散る桜を追いかけることで、私たちは心を震わせ、奮わせ、新しい一年に向かって一歩を踏み出そうとして来たのである。山桜からソメイヨシノに変わったとしても、1100年間私たちはして来たのだ。

被災地の現場の凄さが、今まで以上に様々なメディアで報じられ始めた。目を覆いたくなる姿がそこにはある。

だが、そこにも桜は咲くであろう。
そして、私たちは1100年の間にあったさまざまな悲しみを思い起こしつつ、桜の花の美しさに、再び力を得て来た古人がいたであろうことを思うのだ。

こんな時だからこそ、桜を愛でようと思う。
私たちの住むこの国は、桜で新しい一年を始めて来たのだと思う。

長良公園の帰りに道に立ち寄った比叡山の麓には、早咲きの枝垂れ桜が五部咲きになっていた。
1100年に続く、新しい一年を始めようと思う。

Sidare


2011/04/01

そのぐらいの方便は、おひな様も、娘も、許してくれるだろう

4/1

娘(3)のワガママがちょっと酷かった。
きちんと話さなければならないと思った。

昨日まで一週間家を空けていたので、私に対してかなり甘えてきていた。
それはそれで嬉しいのだが、ワガママとなると別である。


朝、ひな人形の前に座らせた。
我が家は新暦と旧暦で祝おうことにしているので、実はまだおひな様は飾られているのだ。

『いいか、そんな風にしていたら、折角お前のことを守ってくれるおひな様が、守ってくれなくなるよ。それはお父さん、お母さんにとっても、とても悲しいことなんだよ。きちんとお父さん、お母さんの言うことを聞きなさい』
「おひな様は、守ってくれないよ」
『え? なんで守ってくれないの?』
「だって...」

実に驚いた。
そうか、そんな風に思ていたのか。

「だって、おひな様はあられを食べてくれないよ」

娘は、おひな様のためにひなあられをお供えしている。そのひなあられは、夜の間に親が食べていた。それを朝確認しておひな様が食べていたと喜んでいたのだ。

ところが、それを最近していなかったのだ。だから、おひな様は食べていないのだから、自分のことを守ってくれていないのだと言う、そんな論理の展開だったのだ。

むちゃくちゃな論理の展開と言えばそれまでだが、三歳の娘なりの論理の展開としては筋が通っている。

『そうか。それはそうなのかもしれないな。でも、それは○○が、ちゃんとしていなかったから食べてくれなかったのかもしれないよ。いま、ちゃんとするから食べてください、守ってくださいって、お父さんと一緒にお願いしようか?』
「うん!」

良かった、良かった。

お願いをした後、ふとひな壇を見たら、飾りの菱餅の一つが、台から落ちていたのを発見した。
少し寂しそうにしている娘の顔を見ていたら、閃いてしまった。

『あれ? 菱餅が台から落ちているぞ』
「ほんとだ!」
『ということは、おひな様が夜に食べようとして、落としてしまったのかなあ?』
「えー!」
『ということは、食べようとして菱餅を落としちゃったから、やめたんじゃない?』
「えー、そうなんじゃない(^^)」
『じゃあ、やっぱり見守ってくれているんだね』
「うん!」

今日はエイプリルフールだ。
そのぐらいの方便は、おひな様も、娘も、許してくれるだろう。

ただ、今晩はしっかりと食べないとまずいがf(^^;。

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