« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »

2011/05/30

自分の積極的な関与がないと発動しないのだ

5/30

週末は全国大学国語教育学会が京都教育大学で行われた。私が入っている学会の一つであり、地元開催ということで風邪が治らないままではあったが、出かけた。

平成15年度に私は大学院に通っていた。そのときのメンバーが多く集まっていた。久し振りに、そう8年ぶりにほぼ揃ったと言う感じであった。

大熊徹先生にご指導を頂いた、この研究室。そこに在籍しているときはまさか自分が大学の教員になるとは夢にも思わず、ゼミ生を指導する立場になるとも思っていなかった。だが、振り返ると自分がいま学生達を指導している時、大熊先生のお姿を追いかけようとしている自分に気がつく。

大熊先生は、驚異の記憶力と優しさでご指導下さった。この両方とも私にはない。ではなにを追いかけているのか。それは、研究室運営とその存在である。

先生は、院生達の交流を促す為のあれこれを、あのお忙しい中で設定してくださった。現職教員として大学院に通っていた私は、学部学生達との交流にはなるべく関わるようにしていたし、院生同士の懇親会も全て出たと思う。まあ、院生であるから。ところが、大熊先生も全て参加されているのである。

先生は当時二つの自主ゼミを担当されていたから、ゼミ合宿も二つでるし、院生の修論指導の為のゼミ合宿も開いてくださっていた。今の自分を考えるとちょっと信じられない忙しさだ。

また、先生のあり方と言うのを学ばせていただいた。先生と言うのは、何が出来るかというよりも、どんな人であるかと言うことが大事なのだなあと思ったのだ。勿論、先生の学識の深さはあってのことだが、それよりもその先生の傍にいることの幸せを感じられるかどうかの方が大事なのだと思った。

私が出来ているかどうかは別にして、そうなんだなあと、久し振りにお会いした懇親会の席でも改めて思ったのだ。


懇親会は二次会まで続いた。

二次会からは、私のゼミ生も数人参加した。国語教育界のトップ集団の中にいることは大事だと思って声をかけたのであった。そこで語られる言葉が「日本語の筈なのに、意味が分からない」という環境の中に身を投じる体験は、学生時代に是非経験すべきことなのだ。

ゼミでもその世界を作りたいと思うが、ゼミはどうしても甘えが出る。こういう外部の環境の中で鍛えられるのは大事なのだ。

学生の一人が、
「池田先生が、大熊研究室に行ってくださって、橘大学に来てくださらなければこんなに凄い経験はできませんでした。ありがとうございました」
と言っていた。
半分だけ正しい。

私はゼミ生全員に声をかけた。その中で、参加できないと連絡をしてきた学生と全く連絡のない学生がいたわけだ。そこで、違う。さらに、欠席の学生に二次会なら来れるか?と聞いたときに、来れる学生と来れない学生がいた。

つまり、自分から連絡をして来た学生にチャンスはあり、さらに時間があった学生達に扉が開かれた訳である。


こういうのをご縁と言うのだろうなあと思うのだ。
ご縁と言うのは、与えられている条件だけでは成り立たないのだ。そこに自分の積極的な関与がないと発動しないのだ。積極的な関与があった所で、それが実るか実らないかと言う部分にも、もうワンステップがあるのだが、まずは積極的な関与なのだ。ここがなければ、まず、発動しない。

おそらく、人事の本質の部分にも関わっているんじゃないかなあとも思う私であった。


大熊先生、大熊研究室のみなさん、ありがとうございました。

2011/05/27

立て続けに中学校時代の教え子から連絡が入る

5/27

Photo

立て続けに中学校時代の教え子から連絡が入る。一人は、フランスから。もう渡仏して五年になる。フランス人のご主人と一人娘と幸せそうに暮らしている写真が、フェイスブックに上げられている。

(少しずつ、お母さんに似て来たなあ)

とその写真を見て思う。彼女の娘が彼女に似て来たのではなく、彼女が彼女の母親に似て来たと思うのだ。彼女も、彼女のお母さんも良く覚えている。担任もしていないのに良く覚えているなあと自分でも不思議だが。ま、一校目の学校だし、いろいろあったので覚えているのかなあ。でも、そんなことを思いだせるのだから、ありがたいことだ。

もう一人は、大学院博士課程に進学したと言う教え子から。中世スイスの外交史を研究していると言う。日本中で、世界中でいったい何人が研究していると言うのだ(笑)。私が出演したTVを仲間が見ていて、それでいてあれこれ検索してメールを送って来たというのだ。

彼女のことも良く覚えている。
私は「アンソロジーノート」という実践を現場にいるときにずっとやっていた。授業の開始の5分から10分で、その日に応じた、詩、短歌、俳句、小説の一部、名言などを黒板に書いて、それを専用のノートに書き写させるのだ。

硬筆の書写をする帯単元であり、言葉の種を子どもたちにプレゼントする時間でもあった。

短歌、俳句は季節感がとても大事なのに、教科書の単元で教えると、夏に冬の作品を教えるなんてことも平気である。これはなんとしても避けたかった。その季節に応じた作品を届けたい。

そのために、作品をMacに打ち込んでファイルメーカープロで管理して、季節や天気、さらには書式やテーマなどのタグを作って、その日に一番適した作品を瞬時に選べるデータベースを構築して授業で使っていたのだ。定期考査では、その中から気に入ったもの一つを暗記して書くという課題も出していた。

この中世スイスの外交史を研究している彼女は、このアンソロジーノートで一番長い作品の一つ「ネロ」を暗記して書いたのを覚えている。

『二十億光年の孤独』より引用開始 ーーーーーーーーーー

谷川俊太郎 - ネロ(愛された小さな犬に)

ネロ
もうじき又夏がやってくる
お前の舌
おまえの眼
お前の昼寝姿が
今はっきりと僕の前によみがえる
お前はたった二回程夏を知っただけだった
僕はもう十八回の夏を知っている
そして今僕は自分のや又自分のでないいろいろの夏を思い出している
メゾンラフィットの夏
淀の夏
ウィリアムスバーグの夏
オランの夏
そして僕は考える
人間はいったいもう何回位の夏を知っているのだろうと

ネロ
もうじき又夏がやってくる
しかしそれはお前のいた夏ではない
又別の夏
全く別の夏なのだ

新しい夏がやってくる
そして新しいいろいろのことを僕は知ってゆく
美しいこと みにくいこと 僕を元気づけて くれるようなこと 僕をかなしくするようなこと
そして僕は質問する
いったい何だろう
いったい何故だろう
いったいどうするべきなのだろうと

ネロ
お前は死んだ
誰にも知れないようにひとりで遠くへ行って
お前の声
お前の感觸
お前の気持ちまでもが
今ははっきりと僕の前によみがえる

しかしネロ
もうじき又夏がやってくる
そして
僕はやっぱり歩いてゆくだろう
新しい夏をむかえ 秋をむかえ 冬をむかえ 春をむかえ 更に新しい夏を期待して
すべての新しいことを知るために
そして
すべての僕の質問に自ら答えるために

引用終了 ーーーーーーーーーー

私が中学校時代に感銘を受けた詩で、自分の結婚式のときにも使った詩で、中学生に是非プレゼントしたいと思っていた詩なので、この詩は一時間かけて、黒板三枚を使ってひたすら書き続け、生徒はひたすら書き写し続けるという書写の時間としてやっていた。

そして、彼女はこの作品をテストのときに答案用紙の裏側にびっしりと書いて来たのだ。勿論このときの経験が、中世スイス外交史に繋がったと言う話ではない。そんな単純ではないだろう。だが、連絡を貰った私は、そこが繋がった。

夏に学会で京都に来ると言う。
久し振りに会えそうだ。
夏の楽しみが一つ増えた。


2011/05/25

今シーズン三種類目の風邪

5/25

うーん、風邪だ。
今シーズン三種類目の風邪。

今回は、発熱、関節痛、咳。
早く治さないと、原稿や学会参加などに支障を来す。
というか来している。

すんません。

2011/05/21

太陽の塔

5/21-2

もう一つ。
国立民族学博物館は、1970年の日本万博の跡地にできたと書いた。実際は、梅棹忠夫先生はこの跡地に国立民族学博物館を建てるつもりであれこれ動いている。開会の佐藤総理大臣のスピーチを書いたのも梅棹先生だ。

「こんにちは、こんにちは。世界の国から〜」
「1970年度のこんにちは〜♪」
と三波春夫さんが歌ったのは良く覚えている。さらに、入場の時、警官が手をつないで先頭を歩き、その後ろに群衆がゆっくりと歩いているのも覚えている。

TVでだ。

私は東京にいた小学生。とてもじゃないが、行くことは出来なかった。月の石があったり、太陽の塔があったり、世界の珍しいものが見られる。それに、そこには未来が感じられた。明るい10年後、20年後の未来がその万博に行くと見られる、体験できると思いつつ,思いつつ、自分の置かれている環境を考えるとそれは無理だなあと思ってテレビで見ていた。

関西に移り住み、名神高速道路が中国自動車道に変わるあたりの吹田IC付近で進行方向右側に太陽の塔は見える。
(ああ、これが行きたくて行けなかった、万博か)
と感慨に浸りながら高速を流す。
これが関東で1970年代に小学生だった私の思いだ。

通るのだが、なかなか行けなかった万博公園。
そこに昨日梅棹忠夫展の後に、足を運んだ。

20_2

もう、後ろから近寄るだけでドキドキであった。
夕方5時を過ぎている万博公園は、殆ど誰もいない。
あのだだっ広い所に誰もいない。
(夕暮れを楽しむ人はいないのかい)
と思いながら、向かう。

(ああ、ここに上って占拠したひとがいたよなあ。あんなことでも大ニュースになったんだよな)
そんなことも思い出す。

3_2

空は、雲一つなかった。
70mもあるその塔は、ひっそりとそれでいて物凄い存在感で立ち続けていた。現在の顔はしかめっ面で、未来の顔は輝いていた。
岡本太郎さんは、未来は輝いている、常に輝いていることを表したかったのだろうなあと思う。

あれから40年。
万博の示した未来は、
岡本さんの見ていた未来は、
果たしてその未来になったのであろうか。

まさか、40年後にその場所に立ってこの塔を見上げることになることになるとは、当時の池田少年は思いもしなかったのであった。

私以外に誰もいない太陽の塔の傍に居続けながら、
これから先の40年を思うのであった。


ウメサワタダオ展

5/21

21

行かねばならぬと思いつつ、なかなか時間が作れず行けなかった「ウメサオタダオ展」にやっと行って来た。国立民族学博物館(吹田)である。http://www.minpaku.ac.jp/special/umesao/catalogue.html

この場所は1970年の日本万博が行われた場所である。
その跡地に作られたのが、国立民族学博物館であり、その初代館長が梅棹忠夫氏である。

ご案内の通り、梅棹先生は『知的生産の技術』の著者である。1969年の出版以来、累計140万部を売っているとのことだ。今年も新たに刷を重ねている。私は知的生産技術の研究会のパソコン通信の会員であったこともある。近くにあるのだから行かなければなあと思いつつ、先生は他界されそのきっかけもなかなか掴めないでいた。

そんなところに、今回先生の特別展があるというので、スケジュールを調整して行くことにしていた。ま、風邪を引いてしまって動けなかったので、随分伸びたのだが。

結論から言う。
凄いの一言。関西にいる大学生は全員。日本にいる研究者は全員見に行くべきである。3時間あればビデオも見れる。2時間でも大丈夫。常設展は2時間かかるけどこれも見よう。

60歳を過ぎて、朝起きたら突然失明していたこと。そして、失明後の方が執筆した本の数は増えたこと。90歳まで生きられたこと。

こざねなど知的生産の実物とそれから作り出された論文の実物を実際に見て、レプリカを触れること。すごい。

以上。

で、終わっても何だと思うので疑問に思ったことを少し書く。
梅棹忠夫先生は、整理魔であろう。ダビンチのノートのに刺激を受けて、自分も書くと決めたというが、それ以前に記録魔であり、整理魔であったと実感した。つまり先生の整理力は先天的なものである

11_2

私の疑問は、
1)私のような片付けの出来ないものに、整理整頓の力は後天的に育つのか?
2)育たなかった場合、いかなる方法で知的生産は可能なのか?
ということである。

教育に関する一研究者として、刺激を沢山もらってうりゃりゃりゃああと帰って来た。


2011/05/20

「たほいや」の夜  言語力育成にはこれで

5/20

19

昨晩、ネットであれこれ繋がって面白い体験をした。

第三舞台の大高洋夫さんが、「たほいや」について呟いていたので、反応した。あれはいい番組だったと。いまでは国語の教材にも使っているということを。そしたら、「たほいや、懐かしい」というコメントがあちらこちらから届いた。

今は、you tubeで当時の番組を確認することができる。
http://www.youtube.com/watch?v=D8ptbGe6WKg
http://www.youtube.com/watch?v=v-VsSUjYPDk&feature=related

で、盛り上がっていたら、たほいやを作っていたプロデューサーから書き込みが。さらに、盛り上がる。

んでもって、さらに私が出演していた「伝える極意」の音楽を担当していた方からもコメントがある。

たほいやは、語威力、読む、書く、聞く、話す、調べる、さらには司会の力まで育てることができる学習ゲームだと思っている。実際、私が教えていた子どもたちは、この「たほいや」が大好きで、毎日の授業でも良いと言い、卒業生も私の家に遊びに来ては、未だに「たほいや」で遊ぶ。

実は、私はたほいやのDVDも出している。
http://www.japanlaim.co.jp/fs/jplm/c/667

たほいやが、百人一首ぐらいまで学校に普及しないかなあと思っている。新学習指導要領が求めている言語力育成には、ぴったりの教材だと思っている。いや、ほんと。

子どもは遊ぶのが仕事とは良く言う。
この「たほいや」は、言葉で遊べるのだ。言葉で遊べると言うのは、実は相当高度な思考をしていることになる。言葉遊びでたっくさん楽しむこと。これが、子ども時代にはとても大事なことなのだと思う。言葉が楽しいということを体に入れておくことが、その後の豊かな人生に繋がると、本気で思っている。

"たほいや リターンズ"を楽しみにしたい。


2011/05/17

娘(3)の冒険

Img_3041

娘(3)の冒険

あまりにも面白かったので、奥さんがメモした。
それを手に入れたので、記録としてブログに上げておこう。

きのう、お風呂の水を抜いて暫くしたら、配管内の水が出て来たのを音で聞いて、お風呂を入れているのと勘違いし、
「あれ? 出て来るの見たかったのに、出て来ない!」

私が笑って事情を説明。
「玄関のところでお湯を沸かしてて、それをず〜っとホースで引っ張って来てるの。だから、そのなかに溜ってる水を一度全部出してきれいにしてるんだよ」

するといきなり玄関に直行。
!!!
「ちょっと〜〜! お〜い、もしかして見たいの?」
「みた〜い♡」

それから玄関のメーターボックスを開けてレクチャー開始。
「これがガス。沸かすとこ。今は静かだけど、お風呂入れ始めたら。ボ〜ッって音がして動き出すよ」
「みた〜い♡」

仕方ない。
娘(3)は玄関のドアを開けてスタンバッたまま、私はお風呂洗ってセットして、
「聞こえる〜?じゃあやるよ〜! スイッチオン!」
私も玄関に急行。

「ほら、音がしだしたよ」
「ほんとだー!」

でもってまた全部開けてレクチャー。
「これがガスの通ってくるところ。これが水の管。ここからぐるっと回ってさっきのところで沸かして、それがずっと天井を通ってお風呂まで行くんだよ」
「えーっ!!」
「青いホースが水で、赤いのがお湯だね。遠いからなかなかあったかいの出ないんだね。」

メータの数字が出てるのも説明。
「水を使うと数字が動いてくよ。見ててごらん。」
「あ、くるくる回ってる!」
水の場合、数字は殆ど動かない代わりに、水流があるときだけコマのようなのがあってくるくる回る。

ガスは動き出すといい調子で数字が動くので、声に出してカウントアップしながら楽しむ。

電気は数字は動かないけど、円盤がくるんと回っているのを確認。

よほど気に入ったようで、じい〜〜っとしゃがみこんで覗き込んだまま、何度声をかけても動かない娘でした。
変なヤツ。
なんでも知りたがるけど、こういう機械の仕組み、なんでそうなるのかを追求しないと気が済まないのね。
あれ、これは私の血かな。

にしても、びっくりしたわ。
あれだけの説明で玄関に飛んでいくと思わなかった。

またそれに付き合って説明する私もわたしだけどね。

ということである。
こういうのを大事にしたいなあ。








2011/05/15

有田先生はジャンプをしていない 明日の教室有 有田和正先生

5/15

15
(三井寺)

念願かなって、明日の教室に有田和正先生をお招きすることができた。帝国書院の地図の使い方の出前授業と一緒に。

参加者は80名。本当はもっと申し込みがあったのだが、申し訳ないが断った。明日の教室は、あの空気感を大事にしたいのだ。大人数では、講師の先生との距離が、参加者同士の距離が遠くなってしまう。通常は40人を定員にしているのだが、さすがにそれは出来ないと判断して、今回は80人だったのだ。

最初に出前授業。地図の見方のあれこれをクイズ形式で教えてくれる。これはなかなか面白かった。4年生のときにこれを知っていたら、つまらない授業中はf(^^;、ずっと地図帳を見ていたかもしれない。ま、私はそういうときは辞書ばかり見ていた子どもだったけど。

で、有田先生の授業。
有田先生と言えば野口先生と双璧をなす授業名人。最初から名人、ずっと名人、いまでも名人である。「クイズ面白ゼミナール」の出題者であったり、ユーモア教育の嚆矢であったり、小学校の社会科の授業のほとんどのすべてを作った先生である。

私は私淑をしており、実際にお会いするのは初めてであった。研究室でお話をさせていただいた。久し振りに身が引き締まった。

講義の素晴らしさは、言うまでもない。
何回も先生の話を聞いている先生は、まるで落語のようだ。落ちは分かっているのに何回聞いても面白いというのである。

講義のあと質疑の時間に、有田先生に質問をした。
『先生は、どうしてそんな風にジャンプできるのですか?』

先生は、「知識はものを見る為の眼鏡である。知識がないと見ることができない」とおっしゃる。(ちなみに、「鉛筆の先から煙が出るくらいのスピードで書け」という名言も有田先生のオリジナルである。昨日、確認した)

基礎的な知識がなければ、物事を見ることができないのは分かる。しかし、しかしだ。基礎的な知識があったとしても、有田先生の見ている世界を私たちはそう簡単に見ることは出来ない。なぜ有田先生は見ることができて、私たちはできないのか。有田先生は基礎的な知識からジャンプしてその先の世界を見ることができるのか。それを知りたかった。

いや、実をいうと私には仮説があった。それを確かめたいが為の質問であった。

有田先生は
「うーん、好奇心かなあ。私、好奇心の固まりなんです。一つのことを調べ始めるときりがないんですねえ。それで仕事をしすぎて病気になる(^^)」
とおっしゃった。

私は、仮説が正しいに違いないと思った。
それは、有田先生はジャンプをしていないと言うことである。私たちからは、有田先生は、一つのことをきっかけにしてジャンプしているように「見える」。しかし、有田先生は、ジャンプしていない。だーっっっっっっと階段を上っているのである。

私たちの目には、一歩めと最上階の階段が見える。
その途中は見えない。
だから、ジャンプしているように見える。
しかし、そうではないのだ。だーっっっっっっと階段を上っていらっしゃるのだ。

それは、私たちには希望である。
勿論、誰もが有田先生になれるとは思わない。しかし、努力の方向性は示していただいたのだ。

最後の最後に、有田先生はマイチョークの話をしてくださった。先生も絹ごしチョークを使われていた。やれうれしやである(^^)。

懇親会では、私の授業ネタの極太チョークなどを先生にお渡しした。あの有田先生もご存じなかった! これは非常に私の自慢になる(^^)。やでうでじや(谷岡ヤスジ風)。

予定していた半分しか講座が終わらなかったということで、
『先生、今日は前半が終わったと言うことでよろしいでしょうか?』
『また来ていただけますか?』
「はい」
との言葉を頂いた。

有田先生の再登壇を約束していただき、大満足の一日であった。


2011/05/13

一年目でも、先生だ。 一生で一回しかない一年目だ。

5/13

Nanohana

この間、卒業生たちと話す機会が数回あった。
この春から教壇に立っている卒業生たちである。

気になることがあった。
彼らが子どもを見て授業を、生活指導をしていないことである。
いや、もう少し言うと見る暇を与えられていない、または、与えられた方針に従ってやらされているという感覚である。

一年目は、右も左も分からない。だから、先輩先生や指導教員について指導を受けながら授業をクラスを作っていく。私なんかの時代にはなかったものである。全く何も分からない新人の先生には安心感を与えるものであろう。

しかし、どうも感じが違うのである。
子どもの実態を分析し、その上で
「先生のクラスはこういう風に指導して行くといいのではないか」
という感じで指導している感じがしないのだ。

「こういう決まりになっていますから、これで」
「足並みを揃えてください」
「もっと怒らなければダメ」

のように指導されるというのだ。当たり前だが指導教員が全員野中信行先生ではないのだ。
卒業生の見たクラスの子どもの実像とずれているらしい。ずれていても指導教員の指示に従わなければならない。自分の実感とずれている指導は、する方もされる方も虚しくなるだけである。

虚しいだけでなく、空回りし、子どもとの信頼関係も壊れて行く。
だが、自分の考えでやろうとしても、実務の出来ない彼ら彼女らは指導教員の指示に従いながらやらないと、他の所で教えてもらいにくくなるので従うというのだ。

指示に従って、クラスの子どもたちとの間で辛くなるか、指示に従わず自分の得た感覚を元に指導をして、指導教員との間で辛くなるか。この二つの中で苦しんでいるのが手に取るように分かった。これは何も教員に限ったことではないかもしれない。しかし、教員は目の前の子どもに責任がある。

私も若い時には、この狭間にいた。いや、正確に言うと一瞬だけいたf(^^;。というのは、私はすぐに自分の感覚、自分が見たクラスの様子を前提にして学級づくりと授業づくりをして行ったのだ。だから、若い先生にあれこれ言って上げたい年配の先生たちからは煙たがられた。

同じ生徒を見ていても、私が見る生徒観と年配の先生が見る生徒観が違うのだから、指導の方針も違ってくる。そして、私の指導でやった方がうまく行くのだからさらに年配の先生は頭に来るという「悪循環」になっていったのだf(^^;。共済組合の安売り情報とかは私の所に来なくなったもんだった。

(でも、それがどうした)
と思ってやっていた。自分の見た子どもたち、それを元にした分析、そして、考えた指導方法。これでやるのが教師だろうと思っていた。当然、あちこちから矢は降って来た。でも、私はやに刺さる痛みの方を選んだ。自分の考えを殺す痛みよりも、数倍良いと思ってやっていた。

そうやってやっていると、いつの間にか自分の実践のスタイルが出来てくるようになったし、私のやり方に理解を示して、応援してくれる先生も出て来てくれたりするようになった。3、4年掛かったかなあと思う。

何も私のやり方でやれと若い先生に言うつもりはない。その人に応じたやり方があるはずだ。自分と自分の子どもたちに一番適した方法があるはずだ。それをやれば良い。ただ、一つ言えそうなことは周りに合わせてばかりいると、自分の実践にはならなくなるということだ。

一年目でも、先生だ。
一生で一回しかない一年目だ。
いま担任している子どもたちは、あなたの一生の宝になる子どもたちだ。自分の目で見て、自分の頭で考えて、自分で実践することをしないで、何が先生だと私は思う。

体の疲れは、若いから大丈夫。
心の疲れは、若くてもしんどい。
失敗したら謝り、反省し、また挑戦すればいいことじゃないか。
溜め込んでいてどうする。
行動しなくてどうする。
困ったら勉強すれば良い。
猫を被っていたら、猫になってしまうぞ。

一年目の先生、一歩、いや半歩でも前に踏み出してみてはどうですか。

2011/05/11

新採研で語ったこと

5/10

1

今日は出張であった。某市の新採研の講座へ、大学の授業を終えてから車を走らせた。途中は大雨で高速道路の移動も結構大変だったが、なんとか開始時間に間に合った。一年目の先生たちの前で、教師になって一ヶ月後の新採研。最初に聞いたのは、
『子どものことを嫌いになりましたか?』
だ。

小学校の低学年を担当していたら、嫌いになることはまあないかもしれない。しかし、結構頷いている先生が多かった。
『理想と現実はかなり違うと思います。でも、それは多くの先生が体験したことで、そこからしか始まりません。やっとスタートラインに立ったと言うことですね』
と話す。

子どもは命令で動かない。この先生に習いたいという思いを子どもが抱かなければ言うことを聞かない。それを私は学生達に「圧倒的な力の差」と言っている。(うわあ、敵わない)と思われなければ子どもは学びを始めない。知識でも人間的魅力でも洋服のセンスでも趣味でもいい。圧倒的な差だ。

『GWあけで学校に行ったら、仕事がだーっとあることに驚いたでしょう』。
GWは遊ぶ時間ではないのだ。勿論、リフレッシュも大事だ。だが、一年目は違うのだ。GW前までにやり残した仕事とGW後にやることの計画。これをやらなければならない。先輩達はやっている。

先輩達なのにやっている。ところが、一年目の先生は通常やらない。だから、差がつく。休んでいいのだ。リフレッシュしてもいいのだ。すべきなのだ。だが、仕事から完全に離れてはダメだ。私は今年教師になって25年目だ(そう、『ど根性ガエル』の町田先生と同じ!)が、今年初めてGWだった。

一つも研究会に行かず、一日もクラブ指導をせず、一日も学校に仕事をしに行かずであった。勿論体調が悪いからということもあったが、見事に仕事から離れていた。後から気がついたが、教員になって初めてだったなあと思う。

講義では、教師/担任の基本的なスタンス、授業の作り方、生活指導のポイントの三点にわたって90分で行った。本当はこの内容であれば、最低3時間は欲しい所だが、仕方がない。短縮版で行い、その分参考図書を40冊ほどあげておいた。ここからが本当の勉強なのだ。

教師は最初の三年がとても大事だ。実践し、記録し、振り返り、発表し、研究会に参加し、本を読みという循環。良循環に自分を導いてしまうことが大事なのだ。そういうもんだということに体を置いてしまえると良い。

しかし、そこで甘えてしまったり、遊びを覚えてしまうとあとは伸びない。子どもが付いてくるのはその先生の指導力や魅力ではなく、その先生の「若さ」にである。ここを間違えてしまうと、若さが無くなった時不幸なことになる。

現場にいた時、ディベートの講座やコンピュータを扱ったあれこれの研修をしたことがある。その時「大学で習っていないから出来ない」ということを平気で言う先生たちがいた。私はとても驚いた。この先生たちは大学でやった4年間で、その後の30年間を生きようと思っているのだ。

「習っていないから出来ません」なんて、プロとして絶対言ってはいけない言葉だと私は思っている。習っていなくたって、必要なら勉強して身につければいいのである。私もディベートもコンピュータも学生時代には何も習っていない。でも、必要だから学んだのだ。

一年目が、大変なのは分かる。学生時代に座って話を聞いていたのが、立って話をする。これだけでも相当大変だ。さらに見通しが立たない。『目隠しをされて、毎日100m走を全力疾走させられている感じでしょ』
というと頷きばかりであった。

『じゃあ、そこをどう乗り越えて行くのか。そのことについて今日の研修を始めましょう。一年目をサヴァイブするためのあれこれをです。授業づくりの勘所。学級経営における守りについてです』。

講座後の感想を読む限り為になったようだ(^^)。
一年目の皆さん、倒れないように。


2011/05/08

論より

5/8

GW最終日。
母の日のプレゼントを渡すことに成功した娘(3)と遊び続けた。

あっち向いてホイをして遊ぶ日曜日の朝。
負けたくない娘は、顔を動かさない作戦をとっている。

食事後、なぜか「急がなきゃ、急がなきゃ」「何時だろ」「行く時間かな」と言いながら家中を走り回っている。『不思議の国のアリス』のようだ。『どこいくの?』と聞いたら「中学校!」とのこと。家の部屋のあちこちに自分で「学校」を作って「ふんふん」「そうなの」と何やらしています。おもろ。

諺を覚えるのがブームの娘。「急がば回れ」「帯に短したすきに長し」「二階から目薬」など意味も分からず覚えている。「論より証拠」と覚えていたはずなのだが、何時の間にか「論より塩コショウ」に変わっていた。料理をする時、やたらこの「諺」を思い出す。「あれこれ作り方で議論するより、まあ取り敢えず、塩コショウしてみろ」。意味は通っている(^^)。

明日からまた忙しい日々が始まる。

2011/05/05

どうも昔からGWが上手く扱えない

5/5

7

どうも昔からGWが上手く扱えない。

中学校の教員のときは、休息、クラブ指導、研究会で終わりであった。どこかに旅行に行くとか言うのは、基本的にはなかった。人ごみが嫌いと言うのもあるが、わざわざこのタイミングで出かけて行くということは考えられなかった。

大学に移ってどうなるかと思ったら、やっぱりGWはどこにもでかけることはなかった。さらに娘を授かってからどうなるかと思ったら、近隣で遊ぶことはするようになったのであった。

いまの私のオフは、2月と9月。ここでオフを取る。宿泊しながらのオフは、ここだ。GWは、日帰りで楽しむところに出かける。考えてみれば、京都に琵琶湖というのは、あちこちから観光にくる場所。近所をうろつくだけで、結構名所に行ける。

このGWは、イチゴ狩り、買い物、長岡天満宮と出歩いている。人ごみが嫌いと言いながら、まあ、それなりの人ごみの所にいる。

やっと少しずつGWを過ごせるようになって来たのかなあ。


2011/05/03

娘の息がイチゴの匂いだった

5/2

Imgp0076

イチゴ狩りに出かけた。
黄砂の舞い上がる中を走った。本当は近江舞子の方に行こうかと思ったのだが、ネットで調べるとこの冬の寒さでまだ実がなっていなくて、GW中は無理とのこと。そこでビニールハウスのあるところに向かったのであった。これなら黄砂も大丈夫。

イチゴ狩りである。狩りと言うぐらいだから、猛々しいものである。しかし、何を狩りするのかと言えば、相手はイチゴである。
動かないし、襲っても来ない。これを狩りと言うのであろうかという疑問は、確かにある。しかし、イチゴ狩りなのである。

娘(3)に聞いてみた。
『どうやってイチゴを取るか分かる?』
「棒でひっかけて取る」
ま、よく分からないが彼女の頭の中では、確かに狩りのイメージがあるようである。

到着後、植えてある場所で品種の違いと、ミツバチに注意してくださいという説明を受けて狩りに向かう。

「では、いまから30分食べ放題です」

という合図とともにスタートである。

イチゴ狩りは確かに、狩りであった。

動かないし襲ってこないが、何と言うか突撃!の雰囲気になってしまうのである。少しでも赤くて大きくて美味しそうなイチゴを捜して、そこに向かって突進するのである。30分の時間制限と言うのもいいのかもしれない。なんとかせねばという思いに狩られる。いや、駆られる。

30分なんて短いんじゃないかなと思っていたが、豈図らんやである。10分もすると結構お腹いっぱいになるのである。後半の20分をどうしてくれようと、一瞬思うのであった。

私が行った場所は、コンデンスミルクはくれない。しかし、イチゴの種類が四種類あってその食べ比べで楽しめたし、イチゴそのものの美味しさでお腹がいっぱいでも進むのである。なんせ、狩りである。突撃するのである。

おすすめの品種は、「やよいひめ」である。
イチゴなのである。しかし、林檎、メロン、西瓜のような味や香りを備えているのである。これはなかなか見事であった。

娘は、鋏を使うのが面白くて、次から次へと大きいのを捜してチョッキンしてくれる。背が低いので、イチゴの棚の下を簡単に行き来できるのである。父は嬉しいのだが、お腹の具合も結構大変である。

Imgp0124

気がついたこと。
1)垂れ下がっているイチゴよりも、畝の中にあるイチゴの方が甘い。これは偶然かもしれないが、ほとんどそうであった。専門家の意見を知りたい。

2)1mの幅で、ワンシーズン500粒のイチゴ。ざっと計算したのだが、そんな感じであった。これがだーっとあるのだ。栽培農家は摘果しながら大きさをそろえて行く。また、出荷となると手作業で摘むしかない。これならイチゴ狩りで解放した方が手間は省けるなと思った。

3)花も団子もである。イチゴの花とレンゲの花。さらには菜の花も楽しめた。そして、美味しく食べられる。イチゴ狩りは、花より団子ではなく、花も団子もである。

イチゴ狩りが終わってから、娘と話をした。
娘の息がイチゴの匂いだった。

Imgp0176


2011/05/01

これは何とかせねばならない

5/1

GW前半は娘(3)と遊んでばかりいる。私の体調が良くないので遠くに連れて行くことも出来ないので、徒歩圏内で遊んでいる。

ガーデンで花を愛で、テニスラケットでボール遊びをして、自転車に乗せて、シャボン玉をして、釣りをしてという感じだ。これを一日でやる。しかも徒歩10分の所で遊べるのだからまあ、子育てにはいいところだ。

シャボン玉なんてのは、大人のおじさんが一人でやるものではない。ブランコに乗るってのも、それに近い。だが、ときどきやってみたいものでもある。子どもを授かってこういうことが人の目を気にせずに出来るようになったのは嬉しい。

昨日、娘の吹いたシャボン玉を、近くにいたちょっと年上のお兄さんが捕まえていた。一瞬娘はムッとしていた。自分の作ったシャボン玉を持ってかれるのが嫌だったのだろう。

これは何とかせねばならない。

『シャボン玉には何が入っていると思う?』
「......?」
『夢が入っているんだよ』
「えー、ゆめ?」
『そうだよ、夢。夢はねえ、誰かが掴んでくれると叶うんだよ』
「やった!」

咄嗟に思いついた台詞だが、あながち間違えではないんじゃないかなと思う父であった。

« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »

2022年3月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31