今まで常識と思っていたことが
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運動では、うさぎ跳びが否定されてどのぐらいになるだろうか。練習中に水を飲んではいけないというのが否定されてどのぐらいになるだろうか。私が子どもの頃は、うさぎ跳びや水を飲まないで運動というのは「常識」であった。しかし、いまこんな授業やクラブをやる先生はいない。
運動系はきちんと計測して体のデータを取って、科学的に効率よく体を動かすことを追求してきていると思える。だから、こうして常識だったこともあっさりと覆るのだろう。では、通常の授業ではどうだろうか?
私がいま教育で疑っていることは記録に関してのことである。二つある。一つは、ノートに関してである。通常、高校まではノートは教科ごとに分けて取るようにという指導を受けるだろう。その理由は、教科ごとに分けてノートを取った方が頭の中で整理されやすいということである。
私もこのように指導してきた。教科ごとにノートを分けること。その方が良く理解できると。しかし、本当なのだろうか? つまり、一冊のノートに時系列で何でも書くのと、教科ごとに分けて書くので本当に学習に違いがあるのだろうか?分けた方がいいのだろうか?
実を言うと大学の一回生には、「ノートは一冊にする。なんでもそこに書く」ということを勧めている。時系列で何でも書いてある方が、頭には入りやすいし、記憶を呼び出しやすいと思うのである。ではなんで、学校は教科ごとだったのか?
この理由は二つ考えられる。a.ノート点検のため。b.一冊だと、その一冊をなくしたら全教科の記録が無くなるから。a.一冊だと、ノート点検をしているときに他の授業で使えなくなる。だからだ。つまり、先生のためということになる。b.これは私にはよく分かる。なくすと困る。
大学生になれば、ノート提出もなくなる。あっても、コピーを出せばよい。なくす人も少なくなるだろう。そうであれば、ノートは一冊の方がかなり良い。ところが、このことが分からないで高校生までの惰性で行く学生が多い。いや社会人でも多い。
おそらくiCloudなどが普及すると、タブレット一つにだーっと書くだけ書き続けることが普通になるのかもしれない。その過渡期ではあるが、ノートは一冊というのが、いまの常識としていいのではないかと思うのである。
今ひとつ疑っていることは、教室の板書である。綺麗に構造化された板書は見ていて気持ちがよい。そして、それは子どもたちの頭の中に綺麗に収まって行くと思われている。子どもたちも、その綺麗な黒板を綺麗にノートに書き写すことで「満足」している。
私はこの綺麗に構造化された黒板に、罠が潜んでいると考えている。綺麗に構造化された黒板。構造化するのは誰か? そうである。教師である。教師は教材を理解し、授業のために構造化する。その通りである。だが、ちょっと待て。これで子どもたちに力はついているのか?
教師の仕事が子どもたちに力を育てることだとすれば、構造化された黒板を綺麗に書き写すことを指導しても、力はつかないのではないかと思うのである。教師はプレーンに話し、それを子どもたちが自らの力で構造化した「板書」に仕上げて行くこと(実際はノートに)が、大事だろう。
それをする中で、子どもたちは構造化するということを学習して行く。綺麗に書き写すだけでは、その構造化するための力は育たない、育ちにくいのではないかと思うのだ。授業を使って教師が力をつけてどうする。子どもに力をつけなければならない。
社会の変化、環境の変化に伴って、子どもに付けようとする力も変わる部分がある。そうだとすれば、教育も変わって行く。今まで常識と思っていたことが、常識ではなくなって行くこともあるだろう。それを見極めて指導を考えたいと思うのである。
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コメント
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そうなんですよ。板書を中心にするのは一斉授業。活動中心にするならやっぱりノート指導でしょ。私の場合、毎時間のノートに赤ペンを入れて、授業の最初にいちいちいいノートを紹介しています。ポイントは「バン・カイ・ギ」です。(東大ノートのパクリ)構造化に視点を当てれば、ハコがこみ、矢印、色で区別、見出し等々です。
繰り返していくと、学習の足跡をしっかり書けるようになっていきます。今は、子供が写す板書は日付と学習問題ぐらい。あとは全部子供に委ねています。今日の5年生の授業での板書は「低地に暮らす人々の生活の様子を調べよう」だけです。それでも、ノートに2ページぐらい書いています。
投稿: JJ | 2011/06/10 20:02