授業、そして生活指導にはこういう「勝負」の場面が突然現れる。
7/26-3
模擬授業の指導に関してもう一つ、私のメモ程度に書いておく。小学校の2年生を対象とした「を」など助詞の指導に関しての授業があった。最初の発問は「顔( )洗う」の( )には何が入りますか?であった。(ああ、それじゃダメだ)と思っていたが、そのまま暫く見ていた。
見ているとやはり、「を」が入ることが前提で授業を作っている。クラスの中にいる先生の持っている正解を言ってくれるであろう子どもを期待して作る授業だ。正解が入ることを前提にし、そこから授業を組み立てている。この授業の作りかただでは、ダメだ。
なぜダメなのか。この授業では、正解を言う子は元々授業で教える前から答えを分かっていて、答えている。そして、何が入るのか分からない子どもは、よく分からないまま(ふーん、「を」なのね)ということで考えることもなく答えを受け入れてしまう。つまり、どちらも授業で育てていない。
発問後、子どもの正解を前提にした授業展開はこのような形に陥りやすい。違うのだ。子どもの不正解を前提に授業を組み立てると面白くなるのだ。『顔で洗うって、言える? 顔は洗うは?』と聞いて行くのだ。「えー、先生、顔は洗うっていう?」『朝起きてお母さんに、顔は洗うっ!て言われない?』
「私は言われないけど、お兄ちゃんは言われる!」なんてなことを想像しながら、子どもが正解ではないどんな答えを入れるのかを考えて授業を作らなければ、子どもたちに届かない。届かないけど、ここは大学学生相手の模擬授業なので、ドンドン進む。
ところが、流石に次の発問では詰まった。「学校( )行く」「公園( )行く」と言う例文で、授業者は「へ」を入れさせて、「え」との違いに注意する授業を展開しようとしていた。そして「( )に何が入りますか?」と聞いたら、子ども役の学生が「(に)が入ります」と答えたのだ。
(を、ををを。さあ、ここをどうするのかな?)と見ていたら。「そうだね。それも入るね。でも、ここは「へ」で考えてくれる? で、「へ」と「え」の違いだけどね」と授業を展開してしまった。アウトである。授業の10分の持ち時間を途中で切って止めた。解説に時間がかかると判断したからだ。
『あそこは、無理矢理だったでしょ?』「はい」学生も自覚はあった。『そうだったら、どうしたら良かったと思う? 因に、へとにの違いは?』のような話から入った。『あそこで無理矢理、へとえの話にした瞬間、子ども役のクラスの諸君がさーっと授業から離れて行ったの分かった?』「はい」
『だったら、踏ん張らなければならなかったなあ』。授業、そして生活指導にはこういう「勝負」の場面が突然現れる。自分の教材研究不足や理解不足に指導力不足を子どもたちは、鋭い切れ味で突っ込んでくる。この突っ込みをどう受け止めるかだ。残念ながら、今回の授業は逃げてしまった。
だから、授業を受けていた学生たちが引いてしまったのだ。そこは、小学生でも同じ。いや、小学生の方がもっと深い所で引いてしまうだろう。取るべき方法は二つあったはずだ。一つは、へとにの違いについて考える展開に持って行く。折角いい意見を子どもが言ってくれたのだからこれを拾う。
しかし、これを拾った以上はそれをきちんと子どもたちが納得するまで説明しきれなければならない。これができないと判断したので、へとえの話に無理矢理授業の流れを作ろうとしたのであろう。だから授業を受けていた学生は引いたのである。では、話を拾ったとしても展開できないと判断したら?
それが二つ目の方法である。それは、子どもたちの前で謝りお願いするのである。『いやあ、いま良いことを言ってくれたねえ。確かに、へとにと両方とも入るね。うーん。そうだ入る。だけど、先生、この違いをうまく説明できません。すみません。調べてくるので少し待って下さい』この言葉である。
そして、次の授業までに必死で調べて説明できるようにするのである。こういうとき、子どもたちは優しい。先生が謝ったら、「なんでえ、先生分からないの? 馬鹿じゃないの?」とは言わない。少なくとも私は一回も言われたことはない。自分の授業展開の力量不足を謝るのである。
そして、その上で『で、今日は、へとえの違いについて授業を進めたいのだが』とすれば良いのだ。教師自身を守るための、保身のための発言、授業展開というのは、子どもたちは敏感に気づく。そして、そんな先生を馬鹿にし始める。それよりも、間違いを認め、努力をしますという先生を信頼する。
これも小さなことなのかもしれないが、実は1年という長い間子どもたちを面倒見る先生にとっては大事な大事なポイントなのだと私は考える。そんなことを指導した模擬授業のあとのコメントをちょっと再現してみました。今日はこんなことを全部で10個やりました。ふう(^^)。