「努力」について少し考えてみた
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撫子ジャパンの彼女ら、私が指導してる学生達と同世代の者がいるんだなと思った。少し感慨深い。あの世界の檜舞台に立てる者は本当に少ない。彼女らはもの凄いものを手に入れた。だが思うのである。彼女らは手に入れたものと同じぐらい、いや場合によってはそれ以上に失っているのだろうなと。
そして、多くの人たちは得ることなく失うことばかりの「試合」をしている。特にクラブ活動で勝ち負けの結果がはっきりと出るものに関わっている人たちは、そうだと思う。この部分を理解しないとダメなんだと思う。負けてばかりのクラブなのに、なんで続けられるのだろうか。続けるのだろうか。
おそらく、勝ち負けはモチベーションであり、指導者はその勝ち負けの向こうにある人間的な成長を目指して行くのだと思う。少なくとも中高のクラブはそうであろう。指導者はそこを譲ってはならないはずだ。でなければ、学校でやる事の意味は随分変わってしまう。
勝ち負けを越えて指導者が指導して行くことは何なのだろうか。端的に言えば努力なんだろうなあと思う。「努力すれば夢は叶う」なんてことを優勝した人たち、事業がうまく行った人たちは簡単に言う。しかし、これは違う。そんなに簡単ではない。努力すれば夢が叶うなってことはない。
正確に言えば、夢が叶った者は必ず努力をしているということである。合唱コンクールで努力したって勝てないことはいくらでもある。部活動だってそうだ。だが、勝った者は必ず努力しているわけである。だから、努力は尊くて価値があるということなのだろう。
ところがこれだけではないので話がややこしくなる。努力そのものがダメという考え方もある。つまり、間違った努力をしているから努力をせざるを得ないのだということ。結果が出ない努力は意味がないといういことだ。おそらく学生時代までは努力だけでも価値がある。しかし、社会に出たら。
社会に出たら、努力の評価は学生時代のそれとは変わってくるだろう。だから、社会人は人に隠れて努力をするのだと思っている。「私は頑張っています」なんてことを社会人になってから言われたら、ちょっとこの人とは一緒に仕事をしたくないなあと思うのである。
撫子ジャパンの彼女らのすばらしさを見ながら、「努力」について少し考えてみた。
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