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2011/08/17

娘は、満員のプールのプールサイドで大声で泣き始めた

8/13

大学の事務仕事を一つ終え、肩の荷を少し降ろし、寛ぐ午前中。
『何して遊ぶ?』
と聞くと
「お絵描きして、おままごとして、折り紙作って、カプラーして、プール。あ、ご飯も食べる」
と娘。

はい、フルコースですねf(^^;。

食事後最後の一つのプールに行く。
お盆のプールはもう物凄い混雑。
プールの中で体を横にするのも難儀な位。
荷物を置く場所もプールサイドに取れず、少し離れた所になった。

しばらくして泳いでいる近くに席が取れたので、荷物を移動することにした。
『いいか? ここにずっといるんだよ。お父さんは荷物を持ってくるから』
「うん」
と娘に約束をさせて荷物を取りに行った。娘は幼児用プールで遊んでいた。

荷物を取りに行ったとき
「おとうさーん」
と呼びかける娘に応えながら。
急いでもとの場所に戻った所、娘はこっそりと幼児用プールから出て、大人用のプールに入ろうとしていた。浮力のある丸太のような棒を持ってそのまま入ろうとしていた。

(なに!)
と思ったのだが、そのまま見守ることにした。水深1.5mのプールである。一つ間違えれば溺れる。だが、見守ることにした。すると、しっかりと浮かんでいるのだ。そのことを確認して娘を呼びつけた。
『○○!』
「お父さん...」
私の顔色を見た娘は事態を察したようだった。

プールから上がったことを確認してから思い切り叱った。
その場所にいなさいと言う約束をどうして破ったのだ。
死んでしまうぞ。
約束を守れないのなら、もう二度とプールには連れてこない。

娘は、満員のプールのプールサイドで大声で泣き始めた。
関係ない。さらに、叱り続けた。
分かる。
娘は、興味があって自分一人で大人用のプールに入れることを私に自慢したかったのだ。だから、一人で入れた時は、私に自慢するような視線で私を見つめていたのだ。分かるが、それを許すわけにはいかない。

プールサイドのベンチに体を横たえさせ、バスタオルをかけて体を休ませた。そして、反省をさせた。
『分かったか?』
「うん」
『本当に危ないんだぞ』
「うん」
『きちんと約束は守るな?』
「うん」
『じゃあ、お父さんと大人用のプールに行ってみよう』
「うん」

同じことをもう一度私の見ている前でやらせてみた。すると今度は風が吹いていて浮力のある丸太は風に流されてしまう。それを取ろうとすると取れないで、私に取ってほしいとリクエストをする娘であった。
『ほら、取れないでしょ。これを取ろうとすると、この大人用のプールにどぼんとしてしまうんだよ。息が出来なくなるんだよ』
しつこくしつこく話した。

子どもは危険なものには近づかない。近づくのは、危険ではないと判断したからである。ただ、その判断が間違っているとき、悲劇が訪れるのだと思う。

成長と言うのはこの危険の克服の繰り返しの歴史とも言えると思う。
子育てとは、これを一つずつ乗り越えさせて行くことなんだなあと思うのである。

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コメント

横藤です。ご無沙汰しています。
この記事を読んで、以前学校だより(2009年8月)に書いた拙文を思い出しました。
以下のようなものです。
同じような姿勢で、子供の「挑戦」に対しているな、とうれしくなりましたので、紹介させていただきます。

兄の水風呂
 私は銭湯が好きで、週末には自宅近くの銭湯によく行きます。
 先日、のんびりと浴槽につかっていましたら、若いお父さんが二人の小さな兄弟を連れて入ってきました。お兄ちゃんは1年生くらい、弟の方は4歳くらい。なかなか元気で、二人してあちこちでキャッキャと楽しそうにしていましたが、そのうちにサウナの隣にあった水風呂に興味を示したようでした。そこは深さが90cm以上で、小さな子には危険です。
 最初は、手を入れて、水の冷たさにはしゃいでいましたが、やがて片足を入れては「冷た~い!」とまた大はしゃぎ。すかさずお父さんが「そこ、深いから入ったらダメだよ。」とおっしゃいました。二人は顔を見合わせましたが、お父さんの方をチラチラと見ながら、お兄ちゃんがまた片足だけ入れました。
 私は、「これは、やるぞ。」と思いました。案の定、直後にお兄ちゃんがすっぽりと肩まで入ってしまったのです。そして、得意げな顔で「僕、入れた!」とお父さんに報告しました。お父さんは、「ダメだって言ったでしょ。もうしたらダメ!」と叱りました。
今は成人した我が家の長男も、同じくらいの時、同じ水風呂で同じように私の目を盗んで入り、同じように叱ったことがあったので、私はその一部始終をとても懐かしく、微笑ましく思って見ていました。

子供は、小さな冒険や小さな反抗によって成長を確かめようとすることがよくあります。大人は、普段は子供の成長を少し距離を置いて見守りますが、ときには、このお父さんのように叱ります。子供は、こういう大人の反応によって、自分の世界をつくり上げていくのです。今、子供たちを叱る大人が少なくなっているようですが、それでは子供は豊かに成長していけません。故・河合隼雄は言います。

■子どもは成長してゆくとき、時にその成長のカーブが急上昇するとき、自分でもおさえ切れない不可解な力が湧きあがってくることを感じる。それを何でもいいからぶっつけてみて、ぶつかった衝撃のなかで、自らの存在を確かめてみるようなところがある。そのとき子どもがぶつかってゆく第一の壁として、親というものがある。親の壁にさえぎられ、子どもは自分の力の限界を感じたり、腹を立てたり、くやしい思いをしたりする。しかし、そのような体験を通じてこそ、子どもは自分というものを知り、現実というものを知るのである。いわゆる「理解のある親」というのは、このあたりのことをまったく誤解してしまっているのではなかろうか。(中略)
 厳密に言うなら、理解のある親が悪いのではなく、理解のあるふりをしている親が、子どもにとってはたまらない存在となるのである。理解もしていないのに、どうして理解のあるふりをするのだろう。それは自分の生き方に自信がないことや、自分の道を歩んでゆく孤独に耐えられないことをごまかすために、そのような態度をとるのではなかろうか。■
(『こころの処方箋』 河合隼雄著 新潮社 より)

 今日から2学期。学校では、温かく子供たちを見守ることを基本としますが、ときには厳しく叱ることもあります。愛があるからこそ叱るのです。愛があるからこそ手を引かずにかかわるのです。
 2学期も、理解のあるふりをせずに、温かく厳しく指導していきたいと考えています。

いいですね〜!
子供が成長する瞬間ですよね〜。大好きです、こういうシーン。
一方で、好きにさせてりゃいい、危ないぐらいがいい、ちょっとぐらいケガすりゃいい、という親も多いですね。
「自分も子供の頃、やんちゃだったから。」というのですが、
親がこうやって安全管理をしてくれていたんだ
ということに気がつけよ!と思います。
よその子とは言え、
怪我や交通事故に遭わないように祈るしかない、というのは辛いです。

横藤先生、池田です。
コメントありがとうございます。親として娘が成長して行く時の、伴走者、伴奏者、または壁や階段になるということをどう首尾一貫してやっていくのかを、あれこれ考えています。親は切ないもんなんですねえ。

藤崎君、池田です。
放任と自主性とごっちゃにしたり、オレもこうだったからお前もそうだという単純な決めつけ。そんなに簡単に人間は育つのかなあと思うわけです。ま、動物としては育つんですけど、人間としてはどうかなあと。祈るしかないわけですね。

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