教師はこの呟きと仕草に敏感にならねばならない
本学の教育実習が始まっている。本学は三回生の後期に行う。ここで行うと、実習後にその経験を受けて大学で指導することが可能になるからで、これは大事だと考えている。
で、実習が始まると訪問指導も始まることになる。先日出かけてきた。ゼミ生の研究授業である。小学校一年生の算数の授業。9−3−1を考えさせる授業であった。
◆
研究授業ではいくつか印象的な場面があった。バスにウサギが「9」いる掲示物を見せて、いくつかの発問をしていた。
1)
「バスにいるウサギさんの数は?」
「9個」
「そうじゃないですね」
「9匹」
「そうですね」
2)
「9匹のウサギさんから3匹のウサギさんがバスを降りたら、残りは何匹?」
3)
「バスからウサギさんが降りたら、・・・」
「死んだんだ」
「あれ、使っては行けない言葉がでましたね」
「...」
のようなものである。これらについて学生と授業後に検討した。一部載せてみる。
◆
1)
ウサギは匹なのだろうか。ウサギは羽である。このことを学生に確認したら、分かっていたのだが、そこには触れなかったというのである。これは勿体ない。言語事項は、その場その時で指導するというのが野口芳宏先生の持論である。
『そうだね。生き物は匹って数えるんだよね。よく知っているね。だけど、ウサギは特別に違う呼び方で言うのは知っている? 羽っていうんだね。なぜかというとねえ、〜』
と簡単に説明してしまえば良い。そして、その授業でずっと羽を使っていれば子どもたちは覚えてしまう。
さらに余裕があれば、
「一匹、二匹、三匹ってどうして読み方が変わるのかねえ。面白いねえ」
とか小ネタを振っても良いだろう。「ぴき、ひき、びき」と変わるのは実に面白いネタなのだ。
家に帰って子どもは
「お母さん、知っている? ウサギは羽って数えるんだよ。なんでかというとね〜」
と話すだろう。学校で習った面白いことを家で家族に話す。そんなことが一日に一つあればそうとう良いと思う。
2)
『「残っている」という表現が理解できていない児童がいたと思うが、気がついていた?』と学生に確認すると、11人の内の3名が分かっていなさそうだということを瞬時に言えた。これは良い。だが、分かっているのにそれを流してしまったのはダメだ。
私なら、分かっていない三人以外の子どもたちを、一人一人教室の外に出して行き、
『ほら、これが残っているだよ』
としたと思う。ほんの1分で説明できることだ。その授業で必要なキーワードの理解が出来ていないのに、先に進むのはダメだ。
3)
これは私もよく分からない。死ね、うざいなどの言葉は即時に指導すると思うが、ここでは、「死んだんだ」である。これはなんだろうか。私はコンピューターゲームのロールプレイング系のゲームで道連れの仲間が倒れたのではないかなと思ったのだ。勿論、確証はない。ただ、「死ね」ではなく「死んだんだ」というのは、そんな気がしてしまう。
私なら、
『それは何?』
と確認するだろうなあということを学生に話した。
◆
子どもたちは具体の世界にいる。そこにはさまざまな子どももストーリー、文脈、世界がある。その世界の中にいる子どもたちは、そこから勉強の世界に顔を出してくる。それは多くの場合、呟きというかたちで顔を出してくる。または、仕草ということで著してくる。表出である。
教師はこの呟きと仕草に敏感にならねばならない。特に、勉強に自信のない子どもは、手を挙げて意見を述べること等できない。だから、教師がキャッチするしかないのだ。
勿論、中学生、高校生にもなれば、生徒が呟いているのを分かった上で、「きちんと発言しなさい」とその呟きを「無視」することも大事である。だが、今回は小学校一年生。丁寧に拾うべきだろう。
◆
残りの実習の時間を丁寧に過ごすことを期待して、厳しく指導してきた。
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