体育の日。ハッピーマンデー。大学は授業がある
10/10
体育の日。ハッピーマンデー。大学は授業がある。
『ハッピーマンデーが、ハッピーな諸君は手を挙げよ』
と聞くところから授業を始めた。
二つの授業があったが、どちらもハッピーな者は1割にも満たない。
『では、なぜハッピーなのか?』
『ハッピーな人たちはどこにいるのか?』
と問いをたてて考えさせる。
勿論、この社会の中には三連休になることでハッピーになる人たちがいるだろう。しかし、私はこの法律ができてからハッピーに感じたことはない。昔母親が言っていた言葉を思い出す。
「全く休みばかりだとお金がかかって仕方がない」
庶民はこの感覚だろう。しかし、立場を変えればお金が入ってくる人たちがいる訳で、これはハッピーなのだろう。
権力を持つということはどういうことか。いろいろな考え方があるだろうが、私は「他人の時間をコントロールできるようになる」ということではないかと思う。休日を勝手に変更するのもそうだし、勤務時間を決めるのもそうだし、最悪の場合は戦争で殺すこともできる。つまり、その人の生きる時間を奪い取るというコントロールである。
どこがどのようにハッピーなのか。このネーミングをした人たちのその意図は何か。三連休にする法律でありながら、例外の祭日があるのはなぜか。そんなことを考えることは、批判的に物事を見る訓練の一つとして入りやすいかもしれない。
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授業の一つ教職総合演習であった。今日のテーマは「子どもの発熱」について。グループが発表する。最初のグループであり、一回目でもあるのでおかしな点は叱るのではなく、教えて指導する。発表原稿の不備や発表の仕方、さらには実習コーナーでの指示の出し方などに問題があることを指摘し、その改善の仕方も示す。
うがいの仕方の説明、手の洗い方の説明があって、実際にやってみる。
実はしっかりやるとなかなか面白い。学生の説明を聞いていたのだが、どうも私の理解と違うことがあるので、私の説明でもやってみる。例えばうがい。「ガラガラする」というのが違う。この擬音語がくせ者。学生たちにやらせると声を出してガラガラやっている。だが、これは声を出さないでやるのがいい。その方が水がしっかりとのどの奥に入る。
また理解のための説明と、行動をさせるための指示の違いが分かっていない学生も多く、ここも具体的に違いを指摘して説明する。一つ一つ教えるしかないなと思いながら。
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国教法2は、私の研究テーマの柱である「国語科を実技教科にしたい」の部分の説明であった。私がなんでこんなことを考えるようになったのかをあれこれ話す。教師は子どもから影響をもろに受ける。出会った子どもたちによって、教育の考え方や指導のあり方などが大きく変わる。
私が「国語科を実技教科にしたい」と考えるようになったのも、子どもたちの変化によることがおおい。若い頃の私は『勉強は、できるできないではない。やったかやらなかっただ』という考え方を持っていた。実際そうだと今でも思っている部分もある。しかし、ある学校に行ったときこれは無理だと思ったのだ。やろうと思ってもできないのだ。
家本先生の本の中にあったのは、「新しい漢字が出てきたら、辞書を引いてその意味をノートに書いてくる」という宿題を忘れる女の子の話だ。しっかりやるその子は毎回忘れる。よく調べてみたら、辞書が買えないというのであった。だからやりたくてもできないので、「忘れた」と言っていたという。
このことを思った。家に帰っても勉強できる環境にない子どもがたちがいるのだ。そんな子どもたちに、やればできるなんて言っても無理なのである。そうであれば、折角来たその学校。そのチャンスを生かさなければならない。学校には来るが保健室でぐだぐだしている彼ら彼女らを教室に入れて、それも力づくではなくて(なんか面白そうなことをしている)と思わせて自分から入りたくさせて、それでもって国語の力を1時間でつける。そのためにはどうしたらいいのか。私の出した答えは、国語科を実技教科にするということである。
そのあと、この具体例をあれこれ話した。
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折角の休みの日に来ている学生たちに、ああ来てよかったと思わせる授業に挑戦の一日であった。
写真は、この日の夕焼け。秋は夕暮れというのはほんとだなあ。
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