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2011/11/04

先生。一週間に一回90分の授業では全然足りません。

11/3

近江神宮の流鏑馬を見て、午後から大学に行った。教員仲間で作っている研究会に参加するためだ。児童教育学科の教員はいろいろな民間教育団体のトップで発表をし続けて来ている人たちが多く、言ってみれば職場に行くだけで全国大会の分科会になっているという恵まれた環境にいると言えるのだ。

研究会では「なんでこんなもん勉強しなければならないんだよ」と生徒に言われたときになんていうのだろうかという話になった。『入試に出るから』進学しないという生徒には意味はない。『社会人になったときに必要だから』就職できないしという生徒には関係ない。

となると、残る答えは一つかもしれない。それは「だって、面白いじゃないか」である。新しいことを知ること、できるようになること、謎が解けること。これは面白い。教師は少なくともこの感覚を体験したことがある人がやっているだろう。だが、勉強で虐げられて来た生徒たちは、そうは思わない。

だから、だからこそ教師の仕事なのだ。(えっ、面白い!)と子どもたちに思わせるのが教師の専門性であり、教師の存在意義である。役に立つ立たないということは、ちょっと横においておいて、面白いと思わせないとそういう子どもたちは、授業に参加しようとはしない。

「いいから、やれ」というのも指導としてはありなのだが、「だからなに?」ということで全く反応しない生徒たちがいるのも事実。だったら、「だからなに?」の生徒に、「先生ごめん。面白いからやらせて」と言わせる授業を作ることを優先させるべきである。

研究会の後、国語科教育法の学生たちに模擬授業の事前指導を行う。休日だがここしか時間がなかったのだ。2時間ほど行う。このグループの授業は「文法」。指導案の書き方は先週指導済。そして、一応書いて来ている。一瞥して思った。つまらない。聞いてみた『君たちは、この授業は面白いと思う?』と。

すると、「つまらない」という。『そんなつまらない授業を作ってくるなよ』と指導。助動詞「れる・られる」に関しての授業であった。指導案は、この単語には「受け身尊敬可能自発」の四つの意味があり、それぞれの例文を出して、一つ一つ説明して、最後に練習問題を出すというもの。

確かに授業は進むだろう。だが、本人たちも言っているように、これは全く面白くない。文法の授業は、全体が分からないと部分が分からないという特徴がある。だから、助動詞一つを取り出しても、実は生徒は良くわからないということがほとんどである。だから取りあえず順番に教えようとなるのだ。

しかし、ここは挑戦しなければ駄目だ。この「れる・られる」は、同じ形をしているのに、意味が四つもあるというところが面白い。そして、文法ではここが良く問われる。「ない」「の」「た」「そうだ」「ようだ」がそうである。だからここで、同じ形で、意味が違うものあるときちんと教える必要がある。

『例えば、「先生は投げられた。」という一部文を授業の冒頭に持ってくるのはどうかな?』これだと、「られ」に受け身、尊敬、可能の三つの意味があり得る。「先生は食べられた」も三つ。そこから、授業を展開するのだ。(へー、言葉って面白いなあ)とならねば、子どもたちは先に進まない。

指導が終わった後、学生の一人が言った「先生。一週間に一回90分の授業では全然足りません。もっと、先生と授業を作る話をしたいです」と。嬉しいねえ。私はこう答えた

『自主ゼミを組織しなさい。大学の勉強の醍醐味は自主ゼミだよ。学びたいものを仲間と一緒に自主的に極めようとする。懸命に勉強した所で、単位は一つも出ない。これがいいんだ。私も教育に関しては大学時代は自主ゼミで鍛えていただいたんだよ。あんなにやったのに、単位は出ない。これがいいんだよな(^^)』

面白い授業を作る。その一歩目を彼ら彼女らは文化の日に踏み出しました(^^)。

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