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2011/11/18

このところ文学づいている

11/18

このところ文学づいている。

学校教育で文学を扱う意味については良くわからないこともある。私は文学は「危険」だと思っている。そんな危険なものを学校教育で扱うってのは、文学を飼いならしてしまえということなのかなあと思うことがもある。

だってねえ、いい文学の授業をすれば、それは限りなく文学の危険性に近づくことになる訳で、そんなことを学校教育を通して推奨していいのだろうかと思うのだ。だとすれば、文学を飼い殺しにする授業を期待しているか、そもそも良い文学の授業なんて君たち教師には出来ないだろうと高をくくられているかではないかと訝っている私なのである。

ま、
「池田。お前は、文学が分からなくてよかったな」
とほめられているのだか貶されているのだかわからない言葉を恩師から頂いた私ではあるが。

昨日は京都府立高校の国語科の研究授業にお招きいただき、授業を拝見した後合評会で話をさせてもらった。この日の教材は「こころ」。言うまでもなく夏目漱石の作品で、高校の国語の教材の定番の一つである。私は「こころ」で授業をしたことはない。だから、教材研究もしたことがない。そんな私が講師でいいのかとも思いつつも、三年間のプロジェクトの締めくくりということで、出掛けていった。

私は「こころ」の作品を通しての教えるべきポイントなどは、現場の高校の先生には敵わないと思う。ただ、授業の作り方や進め方、また、生徒と同じように先生の指導言で授業を受けての体験からの話はできる。ここをベースにすることでお引き受けした。

授業の場面はKが自殺する所であった。
人の授業を見ると勉強になるものである。自分ならこういう構成で、こういう展開で行うだろうというところを、違う構成で違う展開で進めるのを見ることが出来るからだ。私の進め方が良いのか、それともこの授業が良いのか。はたまた別の選択肢があるのか。あれこれ考えながら授業を見るのは、授業をする人間にとって実に勉強になることである。

授業の中の発問の一つは、Kが自殺したのはいつか?であった。作品の四十八の部分には「土曜日の晩」とある。では、時刻はいつごろ? 授業者は「真夜中」と説明するのだが、その根拠を示さなかった。
(ははあ、これを考えさせるのだな)
と思い、私は生徒になったつもりで懸命に文章を読んだ。すると、「洋燈が暗く点っているのです」という部分を発見。
(うーん、まあ、点けたときは明るかったのだが、暗くなったということは、ランプのオイルが足りなくなったか、芯が短くなった。つまり、時間が経っているということを示す描写ということなのかな)
と思いながら作品を読んでいった。

こういうのが面白いところだと思う。そして、そういう思考を促すような発問を教師は考えるべきなのだと改めて思った。

1)Kが自殺したのは、土曜日の晩のいつごろか? 根拠を示して答えよ。
2)「洋燈が暗く点っているのです」という描写は、何を示しているのか。答えよ。

の二通りが考えられるが、生徒の実態に合わせてどちらかの方法を選択し、授業を展開してくことになるだろう。

帰宅後、授業を拝見して出て来た私自身の疑問が解決しないので、あれこれ考えて調べて、知り合いにメールで聞いたり。実に面白い。教科書の本文に書かれている事実に即して、それを根拠として採用することを通して、読み込んでいく。

帰宅後、私自身の疑問が解決しないので、あれこれ考えて調べて、知り合いにメールで聞いたり。実に面白い。教科書の本文に書かれている事実に即して、それを根拠として採用することを通して、読み込んでいく。

この面白さを、授業の中で子ども達にさせたい。味合わせたい。
教師の説明ではなく、指示と発問で実感させたい。
(自分一人で読んで来たときには、そんな風な物語だったとは全く思わなかった)
と授業を通して生徒が物語から再発見をするような授業をしたい。
そして、一人で再発見ができるような力を育てて上げたい。

で、今朝、連続ドラマの「カーネーション」を見た。
これは私の中での最近のNO1の「ちりとてちん」と同じ位良い連続ドラマである。脚本の良さ、演出の良さ、役者の演技の良さなどがうまいこと回っている。

今日は主人公の糸子が独立を決意して父親とやり合うシーンが一つの山場だった。父親に反抗してビンタを食らうシーンだ。そのシーンに至る前から二階に荷物を取りにいく場面まで、TV番組では非常に珍しい長回しのシーンで構成されていた。

勿論、これは場面の緊張感を崩さないために、ビンタを食らった糸子の頬がだんだんと赤くなることを見せるために、セーので長回しで収録しているのだと思う。takeいくつで収録しきったのか分からないが、もし失敗したら糸子の頬の赤みが消えるまで待って収録しなければならないことになる。その位緊張のあるシーンだ。

twitterなどでこのカーネーションの記事を読むと、見ている人が誰に自分を投影して見ているのかが分かって面白い。主人公は糸子なのだが、糸子の父親、母親、おばあちゃん。それに神戸のおじいちゃん、おばあちゃんなどに姿を投影し、自分と自分の家族を重ねながら見ている。

まさに、文学の醍醐味だなあと思う。
例えば、父親を演じる小林薫さん。この父親の評価は分かれていて面白い。

1)糸子の将来を潰す、最低な父親として見る人。
2)実は糸子の将来をプロデュースしている戦略的な父親として見る人。
3)寺内貫太郎一家の父親のルーツはここだなと見る人。
4)向田邦子さんの『父の詫び状』の父を重ねて見ている人。
5)お母さん(麻生祐未)に甘える気の弱い男と見る人。

一つ一つの姿は父親であり、父親ではない。その集合体が糸子の父親なのだ。多面であるということが人物であり、その多面性を引きさす脚本と演技が、この小林薫さんのお父ちゃんの正体なのだと思う。そしてさらに、このカーネーションに出てくる登場人物達が同じように多面であるってのが、名作の予感をさらに醸し出しているのだと思う。

で、カーネーションを堪能し、一息ついてたら、twitter上で国語の先生仲間と文学教育談義が始まった。特に座の文学をどう考えるかということについて。日本のトップレベルの国語教師とこうして簡単に意見を交わすことが出来る。

この凄さをどう表現したらいいのか。
ありがたいことだ。

東京に行く準備を整えて、京都駅に向かう。さらに、コンソーシアム京都に向かう。学生達の指導だ。来週の月曜日に行う模擬授業の事前指導だ。実は一回やったのだが、教材を変えることになり、もう一度指導をお願いしますということになったのだ。

ところが、もう私には時間がない。
あれこれ考えた結果、東京に向かう新幹線に乗るその1時間前なら、1時間だけ指導の時間が作れると分かったので、京都駅前で指導することにしたのだ。

学生時代、私の同級生は書道の授業を喫茶店で補講してもらったという話を聞いたことがある。國學院大学の佐野光一先生からだ。
(まったく、佐野先生も良くやるよなあ。面倒見がいいなあ)
と思っていたのだが、まさか自分がこうしてやることになるとは。
人生は面白い(^^)。

で、扱う教材は物語文。つまり小説、文学だ。
昨日の高校の研究授業の合評会で話したことなども関連させつつ、指導。
学生達は、続きをやりに大学に戻り、私は新幹線のホームに向かった。

『先生、文学とは何でしょうか?』
大学時代に漢文学の恩師の吹野安先生に伺ったことがある。
「池田。生き様や、生き様」
とご指導を受けた。はっきりと覚えている。

先生がわざわざ「生き様」とおっしゃったのだ。これは「死に様」から出来ている言葉で、通常は間違った日本語として扱われる。そんなもの文学の先生がわざわざ間違って「生き様」と使う訳がない。だからこそ、「生き様」という言葉が私の中で響いた。

(のたうち回って生きていくようすを言葉で表すこと。これが文学なのか)
(俺は、そんな文学を生涯の仕事の対象の一つとして相手にしていくんだなあ)

と思ったのをはっきりと覚えている。

今年の秋は、私にとっては文学の秋なのかもしれない。


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