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2011/11/15

学級作りは実は学習集団を作っているのだ

11/15

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(もう菜の花がありました)

教職総合演習の授業は、学生達が教育実習に行ってしまっているので変則的なメニューで行う。実習から帰ってきている学生たちの実習報告会のような形式で行った。本学の児童教育学科の実習は三回生で行っている。三回生で行うことで、実習後にそれを踏まえて学ぶ時間を確保したいという思いからだ。

実習後に、自分たちが学んできたケースを元に具体的に考えるというのは、実に良い。自分だったらどう指導するのかという感じになる。他人事ではなく、我が事として授業に参加するようになる。今日もそうであった。今日はa.子どもとの関係づくり、b.喧嘩の後の指導の仕方、c.進度が違いすぎる子ども達への一斉授業のあり方、d.叱ることで子ども達が実習生から先生に見方が変わって心強く思われてきたことなどについての発表があった。それぞれに対して質問と意見が出され、私からも考え方を出して議論を重ねた。

例えば、a では、子どもと関係を作るには?ということに関して、「子ども達とよく遊びなさい」という指導を受けたという話があった。それは何なのであろうかということである。子ども達と遊ぶことで教師は何を得ているのか。子どもの人間関係や遊んでくれる良い先生という評価ということはある。だが、大事なのは子どもの理解なのだ。

その子どもが何を考えていて、どうなりたいのかということを理解することが大事。できれば、その子どもの生育環境も理解したい。そして、その上で人間関係を見る。そのときに、教師は適切な距離感を保っていることが大事。ここが遊ぶ時のポイントなのだという話をする。これをしつつ学級作りを進め、その上に授業作りを行うのだ。

現実は、4月の始業式の段階で、どんな子どもを担任するのかは分からない。だから、学級作りを進め、その後に子どもを理解し、人間関係を理解しという順番になる。理想の学級集団を目指しつつ、現実の子ども達の様子を見ながら修正を重ねて行くのだ。つまり、授業は最後になる。

嘗て、そう東京で言えば20年ほど前は、教師が教室に入れば、教室は私的空間から公的な学習空間にまだ変わったし、わざわざ私は先生であるということを子ども達に認めさせる必要もなかった。子ども達も、教室では児童生徒であった。それは社会がそのように認知していたからである。

しかし、今は、教室に先生が入ってくると「何?」という態度を示す子ども達がいる。その子ども達は児童生徒になっていない。まずは、そこで教師と児童生徒の関係を作らなければならない。学級を作らなければならない、学習集団を作らなければならない。その上に、授業が乗る。

若い先生に授業が大事だと言うことを教えるのは分かる。いや、若い先生たちも分かっている。だから授業を懸命にやる。でも出来ない。そして言われる。「教材研究が足りない」「指導言が良くない」と。確かにその通りになのだが、順番が逆なのではないだろうか? 良い授業が良いクラスを作るではない。

良いクラスだと、良い授業が出来るではないだろうか。特に小学校はそうだと思っている。ある程度力量のある先生であっても、自分のクラスでないクラスで突然授業をすることになると、まったくうまく行かないことは珍しくない。それは授業の力がないのではなくて、クラスへの理解、教師と児童生徒との関係がないなかで授業をすることになるからだ。

ある程度力量のある教員でもこういうことは珍しくない。そうであれば、若い教師に先ず授業だとするのは、おかしいことが十分に分かるだろう。学級作りは学級の組織作りであり、生活集団作り、子どもの居場所作りであるのだが、学級作りは実は学習集団を作っているのだ。学習をする土台を作ることができていなくて授業を進めることはできない。

先ずは、クラスを安定させることだ。授業はすぐには上達しない。ただクラスは、いくつかのポイントを押さえて指導すれば、後は若さで乗り越えられるクラスを作れる。持ちこたえられる。私はそれを教えたいと考えている。

その後、残りの3つに付いてもあれこれ話しあって、今日の教職総合演習3は終了。国語科教育法2の模擬授業の授業に続くのでありました。

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