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2011/05/13

一年目でも、先生だ。 一生で一回しかない一年目だ。

5/13

Nanohana

この間、卒業生たちと話す機会が数回あった。
この春から教壇に立っている卒業生たちである。

気になることがあった。
彼らが子どもを見て授業を、生活指導をしていないことである。
いや、もう少し言うと見る暇を与えられていない、または、与えられた方針に従ってやらされているという感覚である。

一年目は、右も左も分からない。だから、先輩先生や指導教員について指導を受けながら授業をクラスを作っていく。私なんかの時代にはなかったものである。全く何も分からない新人の先生には安心感を与えるものであろう。

しかし、どうも感じが違うのである。
子どもの実態を分析し、その上で
「先生のクラスはこういう風に指導して行くといいのではないか」
という感じで指導している感じがしないのだ。

「こういう決まりになっていますから、これで」
「足並みを揃えてください」
「もっと怒らなければダメ」

のように指導されるというのだ。当たり前だが指導教員が全員野中信行先生ではないのだ。
卒業生の見たクラスの子どもの実像とずれているらしい。ずれていても指導教員の指示に従わなければならない。自分の実感とずれている指導は、する方もされる方も虚しくなるだけである。

虚しいだけでなく、空回りし、子どもとの信頼関係も壊れて行く。
だが、自分の考えでやろうとしても、実務の出来ない彼ら彼女らは指導教員の指示に従いながらやらないと、他の所で教えてもらいにくくなるので従うというのだ。

指示に従って、クラスの子どもたちとの間で辛くなるか、指示に従わず自分の得た感覚を元に指導をして、指導教員との間で辛くなるか。この二つの中で苦しんでいるのが手に取るように分かった。これは何も教員に限ったことではないかもしれない。しかし、教員は目の前の子どもに責任がある。

私も若い時には、この狭間にいた。いや、正確に言うと一瞬だけいたf(^^;。というのは、私はすぐに自分の感覚、自分が見たクラスの様子を前提にして学級づくりと授業づくりをして行ったのだ。だから、若い先生にあれこれ言って上げたい年配の先生たちからは煙たがられた。

同じ生徒を見ていても、私が見る生徒観と年配の先生が見る生徒観が違うのだから、指導の方針も違ってくる。そして、私の指導でやった方がうまく行くのだからさらに年配の先生は頭に来るという「悪循環」になっていったのだf(^^;。共済組合の安売り情報とかは私の所に来なくなったもんだった。

(でも、それがどうした)
と思ってやっていた。自分の見た子どもたち、それを元にした分析、そして、考えた指導方法。これでやるのが教師だろうと思っていた。当然、あちこちから矢は降って来た。でも、私はやに刺さる痛みの方を選んだ。自分の考えを殺す痛みよりも、数倍良いと思ってやっていた。

そうやってやっていると、いつの間にか自分の実践のスタイルが出来てくるようになったし、私のやり方に理解を示して、応援してくれる先生も出て来てくれたりするようになった。3、4年掛かったかなあと思う。

何も私のやり方でやれと若い先生に言うつもりはない。その人に応じたやり方があるはずだ。自分と自分の子どもたちに一番適した方法があるはずだ。それをやれば良い。ただ、一つ言えそうなことは周りに合わせてばかりいると、自分の実践にはならなくなるということだ。

一年目でも、先生だ。
一生で一回しかない一年目だ。
いま担任している子どもたちは、あなたの一生の宝になる子どもたちだ。自分の目で見て、自分の頭で考えて、自分で実践することをしないで、何が先生だと私は思う。

体の疲れは、若いから大丈夫。
心の疲れは、若くてもしんどい。
失敗したら謝り、反省し、また挑戦すればいいことじゃないか。
溜め込んでいてどうする。
行動しなくてどうする。
困ったら勉強すれば良い。
猫を被っていたら、猫になってしまうぞ。

一年目の先生、一歩、いや半歩でも前に踏み出してみてはどうですか。

2011/05/11

新採研で語ったこと

5/10

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今日は出張であった。某市の新採研の講座へ、大学の授業を終えてから車を走らせた。途中は大雨で高速道路の移動も結構大変だったが、なんとか開始時間に間に合った。一年目の先生たちの前で、教師になって一ヶ月後の新採研。最初に聞いたのは、
『子どものことを嫌いになりましたか?』
だ。

小学校の低学年を担当していたら、嫌いになることはまあないかもしれない。しかし、結構頷いている先生が多かった。
『理想と現実はかなり違うと思います。でも、それは多くの先生が体験したことで、そこからしか始まりません。やっとスタートラインに立ったと言うことですね』
と話す。

子どもは命令で動かない。この先生に習いたいという思いを子どもが抱かなければ言うことを聞かない。それを私は学生達に「圧倒的な力の差」と言っている。(うわあ、敵わない)と思われなければ子どもは学びを始めない。知識でも人間的魅力でも洋服のセンスでも趣味でもいい。圧倒的な差だ。

『GWあけで学校に行ったら、仕事がだーっとあることに驚いたでしょう』。
GWは遊ぶ時間ではないのだ。勿論、リフレッシュも大事だ。だが、一年目は違うのだ。GW前までにやり残した仕事とGW後にやることの計画。これをやらなければならない。先輩達はやっている。

先輩達なのにやっている。ところが、一年目の先生は通常やらない。だから、差がつく。休んでいいのだ。リフレッシュしてもいいのだ。すべきなのだ。だが、仕事から完全に離れてはダメだ。私は今年教師になって25年目だ(そう、『ど根性ガエル』の町田先生と同じ!)が、今年初めてGWだった。

一つも研究会に行かず、一日もクラブ指導をせず、一日も学校に仕事をしに行かずであった。勿論体調が悪いからということもあったが、見事に仕事から離れていた。後から気がついたが、教員になって初めてだったなあと思う。

講義では、教師/担任の基本的なスタンス、授業の作り方、生活指導のポイントの三点にわたって90分で行った。本当はこの内容であれば、最低3時間は欲しい所だが、仕方がない。短縮版で行い、その分参考図書を40冊ほどあげておいた。ここからが本当の勉強なのだ。

教師は最初の三年がとても大事だ。実践し、記録し、振り返り、発表し、研究会に参加し、本を読みという循環。良循環に自分を導いてしまうことが大事なのだ。そういうもんだということに体を置いてしまえると良い。

しかし、そこで甘えてしまったり、遊びを覚えてしまうとあとは伸びない。子どもが付いてくるのはその先生の指導力や魅力ではなく、その先生の「若さ」にである。ここを間違えてしまうと、若さが無くなった時不幸なことになる。

現場にいた時、ディベートの講座やコンピュータを扱ったあれこれの研修をしたことがある。その時「大学で習っていないから出来ない」ということを平気で言う先生たちがいた。私はとても驚いた。この先生たちは大学でやった4年間で、その後の30年間を生きようと思っているのだ。

「習っていないから出来ません」なんて、プロとして絶対言ってはいけない言葉だと私は思っている。習っていなくたって、必要なら勉強して身につければいいのである。私もディベートもコンピュータも学生時代には何も習っていない。でも、必要だから学んだのだ。

一年目が、大変なのは分かる。学生時代に座って話を聞いていたのが、立って話をする。これだけでも相当大変だ。さらに見通しが立たない。『目隠しをされて、毎日100m走を全力疾走させられている感じでしょ』
というと頷きばかりであった。

『じゃあ、そこをどう乗り越えて行くのか。そのことについて今日の研修を始めましょう。一年目をサヴァイブするためのあれこれをです。授業づくりの勘所。学級経営における守りについてです』。

講座後の感想を読む限り為になったようだ(^^)。
一年目の皆さん、倒れないように。


2011/05/08

論より

5/8

GW最終日。
母の日のプレゼントを渡すことに成功した娘(3)と遊び続けた。

あっち向いてホイをして遊ぶ日曜日の朝。
負けたくない娘は、顔を動かさない作戦をとっている。

食事後、なぜか「急がなきゃ、急がなきゃ」「何時だろ」「行く時間かな」と言いながら家中を走り回っている。『不思議の国のアリス』のようだ。『どこいくの?』と聞いたら「中学校!」とのこと。家の部屋のあちこちに自分で「学校」を作って「ふんふん」「そうなの」と何やらしています。おもろ。

諺を覚えるのがブームの娘。「急がば回れ」「帯に短したすきに長し」「二階から目薬」など意味も分からず覚えている。「論より証拠」と覚えていたはずなのだが、何時の間にか「論より塩コショウ」に変わっていた。料理をする時、やたらこの「諺」を思い出す。「あれこれ作り方で議論するより、まあ取り敢えず、塩コショウしてみろ」。意味は通っている(^^)。

明日からまた忙しい日々が始まる。

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